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BOØWYが解散宣言した夜

2007年03月31日 20:38

BOØWYは 1988年 東京ドームの「LAST GIGS」において解散した。
これはライブを中心に地道にやってきた彼らなりのケジメともいえる興行で、ファンへの感謝を込めた最後の打ち上げ花火的なものであったといえる。

1987年 12月24日 渋谷公会堂

クリスマスでのこの解散宣言が、事実上の解散ライブだったとも言える。

今回「LAST GIGS」よりも、このライブにスポットを当てて書こうとしてるには訳がある。「LAST GIGS」は昔から色合いが粗悪なダビングを1000回はされたであろう裏ビデオが全国に流れていて、後にDVD化されても目新しさという意味ではさほどなかった。この「1224」のDVD化は、今から5年前の2001年に発売され、ファンとしては待ち望んだ伝説の一夜の幻の映像となっている。

1224
BOOWY
B00005RGUX



解散宣言に至る経緯を私の持つ書物をひも解いて、改めて振り返ってみます。

アルバム「JUST A HERO」の完成度に音楽的な自信を持ったBOOWYは、次は商業的成功を目指すこととなる。そして次作の「BEAT EMOTION」(1986年11月08日)が見事一位を獲得し、シングル「マリオネット」のヒットと共に彼らの目標は全て達成されていた。

地元群馬時代からの仲間でもあり、BOOWYのマネージャーを務めた土屋氏によると
--何故、BOOWYはCDセールス絶頂期のあのタイミングで解散を決めたのですか? との問いに、
「よくあるお金や女のことなんていう理由では決してなかったですね。実は「解散」って言葉はそれよりずっと前からことあるごとに軽く出ていましたから。0か100かなんですよね、常に。ロックバンドがまだ根付いてない日本でその場所を見つける事が出来たら解散という意識が彼らにはずっとあった。」

翌年のアルバム「PSYCHOPATH」はこれが最後として作られたアルバムであり、ツアーの初日から解散は決まっていた。では、何故初日に解散を発表しなかったのかといえば、苦心して作った「PSYCHOPATH」を解散興行ツアーみたいにしたく無かった。その為、このツアーの最終日である12月24日 渋谷公会堂に発表することとなる。

しかし、クリスマスを待たず、ツアー途中にファンの間で解散の噂が広まる。
キッカケは事実上ラストシングルとなった「季節が君だけを変える/CLOUDY HEART」の意味深なタイトルの発売であった。CLOUDY HEARTは氷室の同棲していた相手との別れを歌った曲というのがまた拍車をかけたのだ。

そして決定的だったのが、写真誌「FRIDAY」にて解散の噂をスッパ抜かれたのだ。そしてこの最終日渋谷公会堂には、解散を信じたくないファンが、会場の外まで詰め掛けることとなる

このライブで氷室がどの曲の後で、どのタイミングでどんな事を言うのかは、他のメンバーすら一切知らされてなかったという。


アンコール登場に氷室は

今日は、みんなにちょっと言わなきゃいけないことが、ひとつあって・・・。
(ざわめく観客)

6年間・・・6年間・・・・・・6年間、BOOWYをやってきました。
誰がなんと言おうと日本で一番カッコイイバンドだったと思います。
高橋まことと・・・それから松井恒松と・・・布袋寅泰と・・・氷室京介が、4人が・・・。
4人が、思い切り4人でできる音楽を6年間やってきました。


20070331200452.jpg
しゃべりながら声が詰まり、正面が向けない氷室と、
腕を組んで観客から背を向けるしかない布袋のこのシーンが象徴的である。


これから、ひとりひとりが、ひとりひとりの為に、今まで4人でしかできなかった音楽をやってきたように・・・、
ひとりひとり、これからやって行こうと思います


もう泣き出しそうにだった氷室は、この異様な空気を振り払うように最後にこう言って解散宣言を終えた。

フォークのバンドじゃねーんだから、ジメッとすんのは似合わねーと思うから!
最後に、ビシッと贈るぜ!Dreamin'!!」


たったこれだけの言葉にどれだけの時間を費やしたかはわからない。
このライブ映像には「LAST GIGS」にはない悲壮感と緊張感が漂ったものとなっている。

この直後のインタビューで氷室は
「売れていたら解散してないと思う。まだ新宿ロフトでやっていたんじゃないかな。だから売れた売れないよりもというより、実数が上がった事によって回転が速くなってやりたいところまで行き着いてしまったと思う。だから、後1~2年やったらカッコ悪くなる気がするし、だからやめたんだよ」



私は1987年、ニュースステーションで久米宏からこの解散を知りました。この解散宣言は、リアル世代じゃなかった恐らくBOØWYファンが本当に一番見たかった映像でもあり、解散から15年後にリリースされたこのDVDは彼らからの最後のプレゼントだったと思っています。
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リトルパンチドランカー山崎邦正

2007年03月28日 21:28

自分のお笑いに絶対的な自信を持ち、決して笑いに関しては負けを認めない松本人志が、
唯一ある人物にはかなわないとラジオで言った事がある。

それは、何かが降臨した時の山崎邦正だという。

若かりし頃の山崎邦正は、本当に神がかっていた。

名古屋の番組にて、雨上がり決死隊が「大吉」「中吉」のおみくじを引き、その流れとして山崎には当然「大凶」のおみくじを引くことが期待された訳だが、そこで実際に引いたのはミスで何も書かれていない白紙の紙であったという。

仕込み無しでの一発ロケ収録で、天性のひきの強さを見せ付ける。

また「いいとも」のゲストとして出演した際、タモリに「何か悩みを言ってください」と言ったところ、突然観客の男が「タモさん、いいともが年内終了するって本当なんですか?」と発言し、生番組が混乱したのも記憶に新しい。


その偶発的なおもしろさばかりが取り上げられがちだが、私は山崎ならではの計算無しの天性のおもしろさがあると思っている。

今でも忘れられない、その才能を示した最もたる例を紹介したい。

それはその昔「ガキの使い」での企画であった
「山崎vsジミー大西 仁義なき犬猿の戦い」である。

毎回前フリとなる激しい互いのバトルシーンがある訳だが、この放送ではジミーが罵倒の最中、
山崎の愛車三菱ミラージュのドアをヘコむほどマジ蹴りした。

考えて欲しい。あなたの愛車がヘコむほどの蹴られたら、どれだけ逆上するだろうか?
普通ならここで「なにしとんねん!」と、ジミー大西を蹴り返すのが常人の反応である。

しかし、逆上した山崎は反射的に我が愛車をジミー以上に強く蹴り
その後にジミーを蹴るという規格外の行動に出たのだ。

yamasakimage3.jpg

何故、愛車をより強く蹴るという行為を間に挟んだのか?
もう、このおもしろさは文字起こしできません(笑)

ほっしゃんの鉄板ネタである「双子のビンタ」の話にも似た、錯乱中故に起きる人間の奇怪な行動ほどおもしろいものはありません。


この頃の山崎邦正は、ボキャブラでの「リトルパンチドランカー」のキャッチフレーズ通り、他の芸人にない脳を揺らす中毒性を持っていたと思います。

「燃えろ!プロ野球」 謎の効果音

2007年03月27日 21:49

80年代後半、プロ野球は130試合フルで放送され、その平均視聴率は軽く20%を超えていた野球熱狂の時代であった。当時の子供達は野球少年でなくともファミスタの影響で、パリーグの下位打線の選手すら知っていたものだ。

このファミスタの独占市場を打破すべく、1987年にジャレコから出たのが

燃えろ!プロ野球

であった。

このゲームは発売前に大ヒットは決まっていたともいえる。
何故なら当時としては異例のとことんリアルを追求したゲーム性にあった。

ファミスタの様にそれまでの三頭身のキャラとは違い、ピッチャー視線の固定カメラアングルながら、一目でわかるクロマティやバースといった選手の描写。また宣伝の方法も巧みで、ファミスタではありえない乱闘シーンをも再現し、発売前ながら野球ファンの心を鷲掴みしていた。

ファミスタ87で苦渋をなめた私は、このゲームを心待ちにしていた。
しかし、その期待とは裏腹に、このゲームには違う意味で度肝をぬかれまくる事となった。

まずタイトル画面からして尋常ではない。
moepro02.jpg


好感度の低い江川卓が、たぶん描きやすかっただけであろう理由でタイトル画面に登場する。
セレクトボタンを押すと首をふるという、これまた常人には理解できない斬新すぎる発想であった。


いざ試合をしてみると最初はそのリアルさに感動するも、相手がファールすると次の球が必ずストライクになるという、今のストライクゾーン問題など吹き飛ばす致命的なバグが発覚する。

また、この時代野球関連の著作権は厳しく、他のゲームは選手名を微妙に変えていたのだが、燃えプロは全て実名として選手を無許可で登場させ、実際の球団・人物とは関係ありませんとの注意書きの暴挙にでる。

そしてこのゲームの伝説の中でなにより有名なのが、4番バッターは、三振orホームランという当たり判定。
俗に言うバントホームラン(バントでも当たればホームラン)は、ここから生まれた。
この理不尽なホームランにうなだれるこのシーンは、このゲームで育った現在の大人たちの心に未だ根深く刻まれている。

moepro01.jpg



後にクソゲーとして名を残す事となる訳だが、当時はこんなゲームでも一生懸命やりこんだものだ。
私はこのゲームをやっていて、バントホームランよりも記憶に残っている事があった。

それは満塁で三振をしてしまうと、よく聴き取れない謎の効果音が流れるのだ。
最初は気にも留めなかったが、2度、3度と聞く内に、信じられない言葉を言っている様に聞こえるのだ。
子供ながらそんな言葉をこのタイミングでまさか言う訳がないと、空耳だったと納得するようにしていた。

それから20年、その謎の効果音が聞き間違いじゃなかった事を、YOUTUBEで知る事となった。






間違いなく、「アホ」と言っている(笑)


ゲームバランスは排除し、阪神ファン暦30年はあろうかという絶妙な言い回しの野次にリアル性を求めたジャレコには、脱帽ものである。

リアルを追求するばかりに、ゲームバランスを失った最もたる例としてこのゲームは後世語り継がれるでしょう

目を閉じておいでよ 

2007年03月26日 21:18

倖田來未のブレイクで、エロかっこいいという言葉が、あたかも新ジャンルの様に扱われるが、
エロかっこいいとは昔からバービーボーイズの為にある言葉だと言っても過言じゃない。

BARBEE BOYS(バービーボーイズ)は、80年代の日本のシーンを代表する5人編成のツインボーカルロックバンドであった。
このバンドの特徴はやはり、男女掛け合い型のツインヴォーカルにつきる。

90年以降、globeや最近ではmihimaru GTなど、男がうわついたラップで掛け合いをするボーカルは数あれど、
そこにロックを取り入れ男女のツインボーカルで成功を収めたのは、日本では未だにバービーボーイズしかいない。

彼らの曲名は「勇み足サミー」「女狐OnTheRun」「あいまいテンション」など、
絶妙な言葉のセンスを用い、その題名は一度耳にすると以後50年は忘れない。
そんなバービーの名曲の中でも、今回あえて一番のメジャー曲ともいえる
目を閉じておいでよ」を、取り上げたい。

babiboi.jpg

http://www.youtube.com/watch?v=op4Gt95iFHg

この曲はバービーでは最高位となる7位を記録し、「資生堂」のCMのイメージソングとなり、
KONTAの「髪の先までロックだぜ」のセリフは、この曲のヒットと共に彼らの知名度を広める事となった。

声にひと癖もふた癖あるKONTAの超ハスキーボイスと、への字に曲がる眉毛とその表情
色気を究めた杏子のこれまたハスキーボイスと腰の動き
ボーカル二人を喰ってしまうほどの存在感を持つ、いまみちともたか

この3つのトライアングルが自分のポジションを主張する事によりぶつかり合うことで、このバンドは力強さを持っていった。

余談だが、私の洋服は黒が基調したしたものが多く、それはこの頃のDCブランドブームやカラス族の影響では決してない。バービーボーイズ、レベッカ、BOOWYなどこの頃TVで観ていたロックバンドの衣装が、基本黒だった事が原因だと思う。


この曲の歌詞の意味をよく知らずに、夜ヒットでこの曲を最初に聴いた時は前奏から最後までともかくカッコイイが先行していた。ある程度大人になり、サビの「目を閉じておいでよ」が、どのシュチュエーションでの言葉かを理解した時に、この曲は妖艶を佩びた曲となった。
歌詞 :目を閉じておいでよ(うたまっぷ)

男女のツインボーカルにありがちな事を一切やらないのもこのバンドの魅力だったと思う。
例えばハモリなどはほとんど無く、お互いAメロBメロとはっきりと分けた歌い分けで自分のパートを歌い上げるスタイルである。
そしてバービーボーイズの全ての曲を通して、『愛』などという言葉は一切出てこないところに、彼らの哲学を感じる。


20年経っても一切色あせを感じない「目を閉じておいでよ」こそが、エロとかっこいいが融合した最高傑作の曲であると思います。 

NEWS ZEROとMJの違和感

2007年03月22日 21:39

日テレの夜のニュース『NNNきょうの出来事』から、52年ぶりに改定となった日テレの新ニュース番組

NEWS ZERO(ニュースゼロ)
newszero1.jpg



報道番組ながらドラマやバラエティ班のスタッフが製作に携わり、スタッフの笑い声が入ったり、自局キャスターは使わずにタレントがニュースを読んだりと、その試みの違和感は半年経った今でも未だにぬぐえない
星野仙一氏は尊敬して止まないが、彼が北朝鮮問題を語るのがどうも素直に耳に入ってこない。川原亜矢子や櫻井翔など彼らなりに新ジャンルに挑戦している努力は伝わるが、独自見解が伺えない原稿棒読みの姿をみていると、地に足が着いてから抜擢して欲しいと思う。

それまでのマンネリを打破すべく、新しい事を挑戦するも何か違う・・

といえば、あの番組をどうしても思い出してしまう。


MJ (エムジェイ)-MUSIC JOURNAL- 
(フジテレビ 1992年~1994年)
司会 古舘伊知郎、加山雄三、田中律子

夜ヒットやベストテンなどの長寿音楽番組が次々と打ち切られ、新しい歌番組への挑戦としてこの番組は始まった。

しかし、この番組の試みはどうも方向性が間違っていた。

まず司会の古舘の抜擢は、夜のヒットスタジオからの流れで理解できるが、加山、田中は果たしてどういうポジションを求められていたのだろうか? NEWS ZEROのラルフ鈴木や小林麻央のように、違和感を感じずにはいられない。


この番組は毎回アーティストを特集して、番組なりに独自な結論づけを行っていた。

「氷室はギリシャの彫刻」、「チャゲアスは演歌だ」「サザンは放送禁止用語である」「Xはロックの必修科目である」などの荒唐無稽な切り口に視聴者は当然、そのアーティスト(チャゲアス、ユーミンなど)からも批判が集中し番組出演拒否も相次いだ。

Xの特集の際、「試験に出るX」として設問が次々と出され、YOSHIKIが答えるかたちで行われていた。その問いの中で

問:Xを3文字で表すと?
との難問に「気合い」と答えたYOSHIKIは、さすが大物である。



その後、番組は右往左往を繰り返す事となる

・司会者テーブルが移動式で、最新音楽情報がLEDで流れる。
移動式は別に良いが、LED表示が常に流れるのはなにか集中できない。

・CM時にMC陣の後ろのFAXガールがアップになり、脚を組み替えるという演出


この番組はわずか1年半で打ち切られ、35年間にも渡った夜ヒットなどを生み出したフジテレビの夜の音楽番組の枠を終焉するはめとなった。

この後、またも新しい方向性の挑戦ながら、今度は軌道にのる事となる『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』の誕生まで、半年間も音楽番組の不在の空白の期間をつくってしまったのです。


あの頃、MJを観ながらこれなら夜ヒットを復活させてくれないかと切望したものですが、今は「NEWS ZERO」を観ながら、井田由美 や櫻井良子で、落ち着いてしっくりと今日のニュースを伝えて欲しいと心から願うばかりです。


「確率2分の1」が持つモチベーション

2007年03月19日 20:23

占い師に自分のオーラの色やら、前世を占ってもらうよりも、
確率は何より確実な自分の道筋を照らしてくれると、私は常々思っています。


例えば、人間寿命で死ねる確率は47分の1という。
わずか47人に一人しか老衰で死ぬことは出来ず、逆に交通事故や事件など不慮の事態で死ぬ確率は、死亡理由の27分の1とこちらの方が俄然高くなってしまうのだ。寿命を全うして死ぬというのは思いのほか難しい。


聖夜はホワイトクリスマスなんてロマンチックな事を願い続けた事もあったが、
私が生まれてからの30年間、都内でホワイトクリスマスとなった事は一度も無いという事実がある。

その確率は、117分の1となっている(東京) 

117年に一回起きるかどうか・・だから生きている内に一回あれば運がよかったと考えると、雪が降らなくともがっかりする事も無くなる。
どうしてもホワイトクリスマスにしたければ、札幌に行けば1.4分の1の高確率でホワイトクリスマスとなる。


高級な飲み屋に行くとやたら社長の肩書きを持つ人々がいたりして、妙に場違い感を持ってしまうが、確率がその真実を教えてくれる。

社長になれる確率は
5.710.000(国内総企業数)÷63.290.000(全国の労働者数)=11分の1
と労働者11人に一人は社長という意外な結果がわかる。

しかしその社長の中でも10年以上社長でいられるのは
わずか11万人(562万人中)であり、社長の中でも52分の1しかいない。
当たり前の事ですが、社長の肩書きを持てるようになる人は多くいるが、社長であり続ける(その企業が存続し続ける)のは、ほんの一握りの人だけなのです。


いろいろと確率に教わる事は多々あるのだが、

モチベーションを最大にする
「確立2分の1の法則」
 (PRESIDENT Online様)

という記事が非常に興味深かったので、一部引用させてもらい紹介したいと思います。


競争条件とモチベーションとの関係を調べるために、競争率が20分の1、3分の1、2分の1、4分の3、賞金が1000円、2000円を組み合わせて、8通りの競争条件をつくる。これに「今からあなたはこの中の20人と競争し、1番になったら賞金1000円(または2000円)がもらえます。その確率は20分の1です」という説明を、各条件ごとに行う。3人で競争する場合の確率は3分の1、2人で競争する場合は2分の1である。

競争率20分の1のグループでは、勝ったときの喜びは非常に大きいはずだが(成功の魅力が大)、成功の可能性があまりにも小さく、そのためモチベーションは上がらなかった。競争率4分の3のグループは、成功の可能性は高いが、成功の魅力が低く(4人中3人が入賞するのでは魅力がない)、そのためモチべーションは上がらなかった。一方、競争率2分の1グループは、勝つか負けるか、スリル満点で、それだけに成功の魅力も大きく、可能性と魅力が互いの効果を強め合って、最強のモチベーションを生んだと考えられる


宝くじなどのギャンブルでは、報酬(成功の魅力)が全てであり、その一瞬に全てのモチベーションを持っていく為に成り立っている訳だが、普段我々の生活で主を占める仕事やプライベートで、常に宝くじの様に途方もない低い確率を目指しやっていて、長い人生でそのモチベーションを保ち続けれるわけがない。アドレナリンと言っても良いその物質は3分の1でもなければ、1.5分の1でもなく2分の1で一番高く発生するというのです。


モチベーションが最も高いのは競争率2分の1のときで、競争率がそれより高くてもあるいは低くても、モチベーションは高まらない。つまり確率2分の1のときにモチベーションが最高となっている。強いモチベーションは、この両者がともに高いときに生まれ、どんなに一方が高くても他方が低い場合は強いモチベーションは生まれない


目標へのモチベーションの強さは、「成功の可能性」と「成功の魅力」とのかけ算で表される訳で、

例) 目標<社長になる> 
 成功の魅力 (0.9)× 成功の可能性(0.1) =0.09

   目標<同期のあいつに負けない>
 成功の魅力 (0.3)× 成功の可能性(0.5)  =0.15

少し極端な例ですが、どちらかが極端に高くとも他方が0.1ぐらいの数値では意味が無いのです。高い目標を掲げるより、同期とライバル心を持ちながら切磋琢磨していく事が出世への一番の近道となる事は大いにあります。


成功の可能性が0.50、つまり成否五分五分の目標とは、言い換えると難しすぎず、易しすぎず、その人の身の丈に合った目標ということになる。部下にそんな目標を立てさせるには「先月の成績を少し上回り、しかし確実に達成できる目標を立てなさい」と言うのがよい。



私の経験上でも、締め切りギリギリで間に合うかどうかの時の仕事は、とても高い集中力を持って効率よく仕事が出来ていると思います。しかし、時間に余裕がありすぎると、気合が入らずとても能率の低いものとなっています。漫画家や作家などが「何も思い浮かばない時はどうするか?」との問いに口を揃えて言うのは、「締め切り時間ギリギリまで自分を追い込む」、というのも何かうなずけます。学生時代の一夜漬けにも似た集中力なのでしょうか。
この集中力を追い込まれなくとも発揮できる目標設定をつくる事が、常に能率の良い仕事が出来るコツのだと思います。

仕事を楽しみながらやっている人というのは、成功の魅力を得る事がなくとも、休日の過ごし方だったりお金の使い方だったりと、自分に対してのご褒美の与え方が上手い様に感じます。自分の心の中に「できそうな50%の可能性」と「ご褒美・成功の魅力」を置く環境をつくる事が、常にモチベーションを高く保つ最大の秘訣のようです。

変形学生ズボン

2007年03月16日 23:13

この時代・・ 
そして特定の地方でしか起きてなかったであろう、あるムーブメントがあった。

それは、変形学生ズボンである。


若き日の尾崎がピンボールのハイスコアを競っていた頃、私はズボンの太さ(細さ)を競うという、世紀末の狭間の悲しい時代に降り立っていたのです。



もうすっかり忘れてしまっているので、基本的な知識をおさらいしておきます。
学生ズボンは、

タック数 - ワタリ - スソ

のその数値で価値が決まると言っても良い。

誰もが入学式で着ている「標準型学生服認定基準」を満たした、通称「標準ズボン」は

zubon1.jpg

0(タック数)-33(ワタリ)-23 (スソ)

となる。 この数字が基本となるので覚えておいて欲しい。



<レベル1> ワンタックズボン

1-34-22

まるで車の全く通らない車道での信号無視のような、校則違反と呼べるかどうかの微妙なラインである。標準学ランの裏ボタンだけを変えてみる同様、その後へと続く初歩的なステップとなる。その他標準ズボンとの違いは、後ろ中心のベルト通しがクロス( X )になっており、それだけで男心をくすぶるのだ。中学1年の夏頃から冬にかけて真面目な生徒も含んで広がる最初の遊び心ともいえる。


<レベル2> スソ細ズボン 

watarimage1.jpg

1-35-18

キュッと締まる足元がこの時代の流行であった。スソが20をきるかどうかがポイントである。17をきるとはく時に足が通らず、これ以下の細さになるとチャックになっており、そのスソの細さが競われた。細身で足が長い人間がはくと標準ズボンの様に違和感なく、生活指導の先生も見逃す傾向があった。


<レベル3> ツータックズボン

zubon2.jpg

2-40-20

このレベルにくるとタックだけ入れてワタリ、スソが標準サイズと同じという訳にはいかない。進学校で校則の厳しかった私の中学校では、ワンタックで先生のご機嫌を伺うというのが最高のつっぱり方で、ツータックとなると超える境界線の意味合いが変わってくる。中学2年になると挑戦するつわものも現われたが、そんな日は学校中がざわめき、我々の間では「あっちの世界にいってしまった」と敬礼をしたものであった。色もパープルという摩訶不思議な色が混じってくるのもこのクラスからだった。


さて、ここからはその道の専門店でしか買うことが出来ず、「ブラックデビル」「雷神」「悪の華」などそれぞれ名前がついていた(笑)。たぶん皆さんの地域ごとに五感を刺激する名前があったと思います。


<レベルX> 名前つきズボン

zubon3.jpg


4-60-56-40-18

このクラスになるとワタリも3段階ほどの謎の数値を挟むようになる。忘れもしないこのズボンの名は「バラモン」であった。「お前らギルぞ!」 (注1)の名言を残したKが、学校にいる間は標準服を着て過ごし、放課後にトイレでこれに着替え、帰宅中だけ履いていたウソで体裁かざる鮮やかさが今でも忘れられない。


3-60-40

通称ドカンと呼ばれるもので、長ラン同様、残念ながら私の時代ですらこれを実際に履いている人間を見たことがない。もう少し上の世代の先輩方のものであろう。劇場版 ビーバップハイスクールや金八先生第1シリーズのマッチの回でそれは観る事が出来る。




これらの変形ズボンを買う時は専門店でベンクーガー、ジョニーケイなどのメーカーのパンフレットを手にとり、そのズボンをはいた自分のイメージを膨らましていくのだ。どのメーカーのパンフレットも大体以下のようなイメージショットであった。

watari.jpg


これら偏った変形ズボンは抜群の足の長さがあって成り立つもので、自分のスタイルで着る事の悲劇を、誰もが学校に行ってから初めて知る事となるのです。


散々、そのズボンの太さを競い合ったものの、高校に入りブーツカット(0-32-28)なるズボンが流行り、チーマーファッションの浸透と同時にこの独自の文化が衰退していくのを、ちょうど見届ける最後の世代となってしまったのです。

バンドブーム時代の音楽雑誌

2007年03月13日 19:36

80年後半から90年代前半 バンドブームが世に起きた。
ネットが普及してないこの時代、彼らの事を深く知る手段は音楽雑誌であった。
音楽雑誌といってもそれぞれが特化したジャンルを持ち独自色を競い、バラエティに富んでいたと思う。

さて、この時代の主な音楽雑誌といえば何があっただろうか・・?



PATi PATi
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表紙に書かれる独特なPATiPATiフォント(勝手に命名)が特徴的で、雑誌としてのインパクトも高かったと思われる。特徴としては他誌より判型が大きく、アーティストの写真もモノクロが主だったこれまでの傾向を一新し、カラーのイメージショットを巻頭から何ページも掲載されていた。


WHAT'S IN?
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主にリリース情報が主な総合情報誌といえる。CBSソニー出版故にソニー系のアーティスト(バービーボーイズ、渡辺美里、大江千里、TM NETWORK,佐野元春など)の掲載率が高かった。表紙に写真を使わずにクレヨンタッチで描かれる事が多い。この雑誌のうんちくを書くべく、記憶を必死に思い巡らしているのだが、どうしても文通コーナーでペンフレンドを探していた思い出しか浮かんでこない。



CDでーた
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名の通りデータを洋楽邦楽を問わず扱う。情報量は多いが深みはあまりない。安価なのが特徴.「WHAT'S IN?」「オリコン」辺りが同系と思われる。



宝島
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70年代コアなサブカルチャーネタが主だった宝島も売り上げ減少で、80年代に入り大幅な方向転換を強いられ、音楽誌、特にロック志向の強い雑誌となる。バンドブームが去った90年代には風俗、ヘアヌードなどのアダルト雑誌へと10年単位で大きく路線変更を繰り返し、現在はビジネス雑誌となっており、カメレオンの様に形体を変えて生き残っている。



GB(ギターブック)
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ギターブックGB →GB →Gb と改名を続けている。ギター少年にとってはバイブルともいえ、付録として歌本がついていた。テレビにはあまり露出しない尾崎や浜省などが好んで出る傾向があり、彼らの言動や姿を見るために一気に人気が出て、長いあいだ音楽雑誌の中ではナンバーワンの部数を売り上げていた。




ON STAGE
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名前の通りライブレポートに特化した音楽雑誌。その号で特集されたアーティストのファンにはたまらない内容だが、逆にファン以外は買わない訳で、諸刃の剣の様な雑誌で現在はたぶん廃刊になっていると思われる。



ロッキングオンジャパン
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チャート主導の雑誌とは異なり、ロングインタビュー形式でそのアーティストの半生までを深く掘り下げるのが特徴。雑誌に掲載するインタビュー内容もそのアーティストさえも発売まで知る事が出来ず、ヴィジュアル系を一切扱わないなど硬派な姿勢を守っている。それゆえにポップ色が強いアーティストの掲載には読者の間で議論がいつもおこる。



バンドブームの終焉とネット時代の到来により、私はこれら音楽雑誌を買う機会がほとんど無くなってしまいました。
現在どの雑誌が生き残っているのかもわかってないのですが、PATiPATiフォントを久々に見ると胸が躍る訳で、私の記憶の中では輝きを保って残っているのです。

BOOWYが解散宣言をした渋谷公会堂がいつの間にか「渋谷C.C.レモンホール」と輝きを感じさせない名に変わったような悲劇を繰り返さぬよう、音楽雑誌にはいつの時代も魅力的でロック少年達の心をたきつけて欲しいと願うばかりです。

BOØWY 裏年表

2007年03月05日 21:40

BOØWY 裏年表


1960年 
10月7日 寺西修(氷室京介)、群馬県高崎市に生まれる
「氷室」の名前の由来は、漫画「ワル」(講談社)の主人公、氷室洋二からとったもの

1962年
2月1日 布袋 寅泰、群馬県高崎市に生まれる
父親は家にほとんど居なかった

1969年 
3月 高橋まこと、中学卒業後、志望していた進学校福島高校に不合格となり一浪する。
松井常松、小3の校内の陸上大会で優勝した景品のシャープペンを、友達に貸し渋った事をキッカケに、イジメに遭う。

1970年
高橋まこと 福島高校に入学も、長髪に下駄というスタイルで登校し、初日から上級生にボコボコにされる。

1971年 
11月 氷室、小6の時に「友人のカバンを傷つけた」と担任の先生に疑われ、大人たちに不信感を募らす。


1973年
4月 氷室、中学入学。校則通り五分刈りにする。卓球部に所属。
8月 氷室、先輩3人に呼び出しをくらうも返り討ちにし、暴力に快感を覚える。
12月24日 高橋、恋人に浮気される


1976年 
4月 布袋、中学生にして180cmを突破

1977年
氷室、パトカーをひっくり返す

1978年
布袋、190cmを突破

1980年
9月 氷室、三原順子のデビュー曲「セクシーナイト」で 、寺西修一名義にてコーラスで参加する。


1982年
1月 高橋、BOOWYのドラマーのオーディションにて、曲の出だしのカウントする声が大きいという理由で受かる
                  ↓↓↓

2月 高橋の「NO.NEW YORK」演奏開始のカウントがあまりにも大声だった為、松井が笑い出し、演奏が中断

3月 ファーストアルバム「MORAL]発売。
ジャケットの帯には「エアロスミスとアナーキーとサザンを足して3で割ったバンド」とキャッチコピーを付けられる。

5月 ツアーの宿泊費節約の為、全員でラブホテルの一室に宿泊

10月 氷室、太陽にほえろの「ラガーのラブレター」の回に出演



布袋、髪を含め200cm突破


1983年
7月 3万人が集まるイベントと聞き参加するも、村おこしのイベントで若者は30人程度。ギャラもキュウリ、レタスなどの野菜であった。

1985年
高橋 ツアー先の観光地で必ず城に登る。

1987年
2月 ラストシングル「季節が君だけを変える」を発売
布袋が「もっと深い、俺たちの関係を言葉にして欲しい」と氷室の歌詞に意見した最初で最後の曲。
その要求の見返りとして、氷室作詞作曲の「CLOUDY HEART」がB面にくる事となる。

12月 写真誌「FRIDAY」にて氷室に殺人の前科があると書かれる

1988年
4月 LAST GIGS「俺達はまだまだ伝説なんかにはなんねえぞ」の言葉を残しBOOWY解散。

12月 氷室、アルバム「FLOWERS for ALGERNON」が日本レコード大賞を受賞。
「これもひとえにスタッフとファン、それからあとは俺の実力だと思ってます」とコメント

1989年
4月 布袋、イギリスで「DANCING WITH THE MOONLIGHT」を発売するも英国ファンには受け入れられず廃盤に。

7月 氷室、「SUMMER GAME」の作曲の為、首都高のパーキング内でギターをかき鳴らしていたところ、警察に職務質問される

1990年

10月 氷室、30歳になり、「きてよ パーマン」をよく口ずさむようになる。

11月 布袋、COMPLEX解散コンサートを東京ドームで行う
布袋はこのコンサートをやる意思が無く、ソロアルバムGUITARHYTHMの製作にいち早く入りたかったが、ドーム経験の無い吉川に熱望されしぶしぶ興行を行うが、この微妙な空気はDVDでも十分伝わる

1992年
1月 氷室、正月にHOUND DOGの大友の家で麻雀をやり、大友が振り込んだ「中」で大三元をあがる。

1994年
5月 布袋 海外の大物が参加する東大寺ライブのリハに堂々と遅れてきたゲーリーヨシキに
  「XJAPANってなんだよ わけわからねえよ」と告げ、打ち上げ後の深夜に大げんかとなる

1995年
阪神大震災のチャリティーコンサート(日本武道館)で氷室、布袋が共に参加し解散後最もニヤミスした瞬間だが、同じステージ上にあがる事はなかった。


2001年
高橋、解散後いくつものバンドを渡り歩いたが、未だに 「BOØWY 高橋」 とサインしている事が判明



【参考文献】 
「大きなビートの木の下で」(ソニー出版刊)
「BOOWY RENDEZ-VOUS」(ソニーマガジンズ刊)
「BOOWYと日本のロック」(宝島社)

錆びついたマシンガンで・・

2007年03月04日 03:07

人生に無駄な事などひとつも無いと言うが、どうも思春期の貴重な時間を、誤った方向に費やしていた気がする。


闘将!!拉麺男(1982年~1989年)で、毒草・毒薬・毒虫を配合して入れた瓶に長い年月をかけて手とうで突き、
毒手を完成させるという話があった。
魁!!男塾の「民明書房刊」を図書館に探しに行った前科のある私が、これを疑う理由などなかった。

rameman011.jpg


毒手はさすがに無理だったが、ジャッキーの映画で砂をひたすら突いて鍛えるという場面があり、
この行為の裏づけが取れたという確信を持った。
それからというもの人知れず砂場を見つけると、手とう突きを繰り返し、
自分の手を鋭利に削る日々が、結構いい歳まで続いた。

努力の甲斐あって鋭さを持った手を完成させたのは良いが、よくよく考えると、
一般人の私に手とう突きは、どのような場面で使われるのだろうか?

男ならば一度ぐらいはコブシを強く握り締め、それを突き放つ機会はあるだろう。平手も同様にあるだろう。
しかし、この鍛えた手とう突きは、本日まで一度もお披露目する事無く、今後もそんな場面は無さそうだ。
中国カンフーの時代ならいざ知らず、現在においては全く無意味だった。


こんな事を努力したところで、人生の巨大な壁が立ち塞がった時に、何も生きてこない。

壁といえば、ゼビウスでバキュラという攻撃を一切してこない、ひたすら回転するだけの壁がいた。
xevizebi.jpg

そのバキュラに256発打ち込めば破壊できるという情報が流れ、連射機がなかった当時は、
ハイパーオリンピックで鍛えた連射技で、出現からギリギリまで256発を打ち込むことに情熱を注いだ。
幾度も失敗し、これにかけた時間も計り知れない。
しかし、この256発を打ち込むのは事実上不可能で、これがガセ情報とわかるのはだいぶ後であった。

子供ながら脱力感というものを知り、壁は壊すものではなく、よけるものだと理解した。
しかし、人間は忘却、過ちを繰り返す生き物である。


その10年後にバイオハザードにて、迫り落ちてくる吊り天井に対して、パニックに陥り、
ショットガンをひたすら迫り来る天井に撃つという行為を半日繰り返していた。

baihazadmage313.jpg



どうも学習能力が足りないらしい・・

それからまた10年経った今現在、今度は見えない現実の壁に対して、錆付いたマシンガンで今を撃ち抜いているようだ・・・・


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