ライブドアブログ移転にともない、アドレス変更となります。


引越し先: http://blog.livedoor.jp/kaiko80s/

新RSS   http://blog.livedoor.jp/kaiko80s/index.rdf


お手数ですが、よろしくお願い致します。

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

野音に情熱の薔薇 が咲いた夜

2007年06月30日 21:06

日比谷野外音楽堂 (通称:野音


キャロルの解散コンサートで炎上したことが、野音伝説の序章となった。
炎上とはなにも比喩的表現じゃなく、本当に燃えたのだ。何を言ってるかわからない人は、お父さんにでも聞いてほしい。皮肉にもこの事故がキカッケで「ロックのメッカ」としての、その後多くの「野音伝説」を創りあげていった。

野音伝説の中でも、このブログとしてはずせないのは、あのバンドの結成のキッカケとなった場所である事だ。

スピニッジパワー時代の氷室が、当時の所属会社に嫌気がさし地元に帰る事を決意した時期に、ふらりと立ち寄った場所がこの野音であった。そこでRCサクセションのライブパフォーマンスと「スローバラード」にショックをうけて、もう一度思い直し、あの男を六本木アマンド(喫茶店)に呼んでBOOWYは結成された。これをもう10回は書いた気がする(笑)


そして、今回取り上げたいのが、ちょうど今から20年前のこの初夏の時期 

1987年7月4日  ザ・ブルーハーツ 初のワンマン野音コンサートだ。

80年代のライブを語るうえでも、ブルーハーツの歴史を振り返る意味でも、はずせない一夜となった。

その理由はまず、このライブの前に起きた悲劇を知ってもらう必要がある。
三ヶ月前に野音にて、ラフィンノーズのライブに集まったファンが将棋倒しになって、死者3人を出す事故を起こした。この事件は当時社会問題にまで発展し、過激なライブに多くの非難が集中した。

熱狂的なファンを持つ事で有名なブルーハーツのライブの開催は危ぶまれることとなり、野音側とのブルーハーツ側の話し合いが続けられた。なんとか開催にこぎつけるも、その条件として、多数の警備員と機動隊、そして鉄の柵を観客席の設置する事であった。

ライブ冒頭に登場したヒロトは、彼なりの皮肉った言葉で、自分たちの思いを素直に観客にぶつけた。
20070630194855.jpg


(会場の鉄の柵を見つめて)

みんな動物園のようなオリに入って、ええなぁ、オイ! 
おれらはサーカスみたいな台に乗せられて、みんなバカみたいよ(笑)

(中略)
音楽のことは一生懸命やる、ということしかないから、やるけども。
警備のやり方とかね、俺等が考えても、(野音側が)やらしてくれんのじゃぁ。


でも、ひとつだけ信じていることがあるんです。
こんなもん(鉄柵)なくたってケガ人出さないライブ出来るよなぁ?

表には機動隊も待っとるし みんな安心して騒いでくれ!



この言葉と共に一曲目の「ブルーハーツのテーマ」に突入する。
この時のオーディエンスのボルテージは、容易に想像できると思う。

少し脱線させてもらいます。
これも何度か書いた気がするが、中学生の頃、吉川晃司のコンサートに初めていった。当時の吉川ファンといえば、前髪が滝になっている工藤静香みたいなお姉さまと、異常な肩パットスーツに柴田恭兵のサングラスを着用したお兄さま。観客のほとんどがそういう人たちで、独特の異様な空気が会場に流れていた。曲が一通り終わり、皆でアンコールを言わなければいけないお約束の場面で、誰もアンコールを言い出さないのだ。間違いなく誰かがアンコールと言い出せば、そこから広がっていくのに、その第一声がどこからも出ない。「お前が言えよ」という観客同士のお見合い状態がだいぶ続き、結局、アンコールコールなしで吉川さんは登場するはめになった。その年以後長い間、私の土地には吉川さんは来なかった事も記しておく。

何が言いたいかといえば、ライブの空気はその時の観客が作るということなのだ。
障害はオーディエンスを一体化させその興奮は伝染していく。

この観客の熱気はさらに彼らをヒートアップさせ、いつもに増しての圧倒的なパフォーマンスを演じ、その興奮はDVDからでも十分伝わってくる。
ライブも中盤に入り、ケガ人も出ずに大熱狂となっているこの状況に、ヒロトはMCで興奮しながら、あの名言を言うことになる。


どうやら、どうやら・・
この鉄のオリは、人の心までは縛れんようじゃなぁ! 

ザマぁみろ!

(リンダリンダへ)



野音にひとつまた伝説が刻まれた瞬間だった。
この流れでリンダリンダなんて、どれだけプライスレスなライブなんだろうか。

私はこの野音のコンサートの映像が強く残っているせいか、
坊主頭にボロボロのロンT、左腕に赤い腕章のこの時のヒロトの姿が、一番輝いて思い出されるのだ。


この名言の後のリンダリンダで

決して負けない強い力を

僕はひとつだけ持つ


「ぼくはひとつだけ持つ」と唄いながら、一本の指を会場に突き立てたシーンはなぜか泣きそうになった。
そのときの会場との一体感は、本当に鳥肌ものであった。

20070701030703.jpg



大人になった今でも、まだ残る少年の部分をチクチクついてきやがるザ・ブルーハーツが、
いくつになってもやっぱり好きだ。


類似記事:
BOØWYが解散宣言した夜
尾崎豊が太陽の破片となった日


スポンサーサイト

俺の背後に立つな

2007年06月28日 23:54

会社の総務部に、在籍年数が社長よりも長いと噂される、
お局との称号も超えた女子部の主(ぬし)とも呼ばれる社員がいる。

現代社会に生きていながら内線、社内メールといった常用手段を一切無視し、
必ず直接やってきて、書類の不備などを叱咤するのだ。

170cm以上はあろうかという巨体と、白黒テレビ時代の昭和パーマ
そして男でも後ずさりしてしまうほどの、圧倒的な存在感を併せ持つ。

振り向きざまに彼女の仁王立ちを見てしまうと、大変申し訳ないが、本能が怖がるのだ


なぜだろうか・・・?

(回顧中・・・)


あっ・・ああーー


mizusu.jpg


「熱血硬派くにおくん」(ファミコン 1987年)

に出てきた最強スケ番

2007062912.jpg
(注)高校生です

みすず にそっくりではないか!


どうりで潜在的に恐怖を覚えるわけだ。




うちの課長はいつも窓際で、腕組みをして立っている
基本的に一切動かない

だが、我々部下が何かミスをすると、明らかに不自然な加速度をつけて
小走りで背後にやってくる。


どこかに行ったかと安心していると、また猛スピードで背後をかけぬけ元の窓際へ戻る。
誰の背後で止まるのかと、いつもヒヤヒヤして仕事にならない。

なんだ・・このいつも上から監視されているような視線と、予測不能な動きは・・

(回顧中・・・)

あっ・・ああーー



makaimuraderede.jpg

魔界村 (ファミコン 1986年)の

imageddd.jpg


最強の雑魚の称号を持つ

レッドアリーマ そっくりじゃないか!


どうりで丸裸にされたような、妙なプレッシャーがあるわけで・・




そういえば、うちの部長は・・・

均太郎はなぜ消えた?

2007年06月26日 23:28

ビー・バップ・ハイスクール のデブキャラ

大前 均太郎 (きんたろう

通称:キン 

bebooop001.jpg
映画 「高校与太郎狂騒曲」 (1987年)より

を覚えているだろうか?


20年にも渡って長期連載される舞台となった愛徳高校の主要登場人物での一人である。いや、あったが正しい表記だ。後輩ながら腕っ節の強さでヒロシ・トオルの危機を幾度も救ってきた。
しかしこの均太郎(きんたろう) は初期の頃からの中心メンバーでありながら、中途で信じられないほどの鬼畜へと変貌し、突如退学処分となってこの漫画から消えていったのだ。それも前フリ・伏線なしのたった一話で変貌する、異例すぎる解任劇だった
もう忘れた方の為にこの時の話を簡単に説明すると、キンは他校の生徒をかつあげしそれが学校にバレる。停学を免れるため先輩のノブオが土下座し一時は処分を免れるが、反省もなくまた同じ相手にかつあげを繰り返し、結局退学処分が決定した。ノブオの顔をつぶした事をトオル達に攻められると悪態をつきながら、去り際に「気つけてください。俺みたいなヤツがヤクザになりますから・・」と信じられない捨てセリフをはき、全員をドン引きさせ、このマンガから消えていったのだ。

bebooooop002.jpg
 (コミック15巻 「小悪党放薄物語」より) 

その悪ぶりも派手さもなければ、伏線も裏事情もない。
読者になんともいえぬ後味の悪さのみ残して本当に消えていったのだ。
派手なストーリーありきの青年誌とは思えぬ、異例の展開だったのだ。

一体何があったのか?

この当時ささやかれていたウワサは、ビー・バップ・ハイスクールの主要登場人物は、作者のきうちかずひろ氏の身近にいる実在する知人がモデルだと本人も公言している。そしてこの均太郎のモデルとなった知人が、プライベートできうち氏に信じられない裏切り行為を働き、それに激怒したきうち氏が、突如、均太郎を外道キャラに変え、絶縁の意味をこめてこの話を書いたのだという。これは、あくまでもウワサだ。

この本当の理由をきうち氏自らインタビューで語っており、この均太郎の解任劇の真実を知ることが、このマンガの本質を知ることに繋がるのだ。


----ジュンやシンペーと比べ、均太郎は登場回数が少なかったですね?

きうち氏 「ジュンとシンペーといえば、ミニ、ヒロシ&トオルなんですよ。そうすると均太郎がどういうキャラかわからなくなる。わからないから、どんな話にもいまいち絡みずらい。じゃあ特別好きなキャラじゃないから消してしまおうと(笑)」

ーそれで退学に?

「ええ、派手な事件を起こしてとか、みんなに憎まれながらじゃなくて、現実にありえるイヤ~な消え方っていうのをやってみようと思ったんですよ。その結果がことさらセコい事を繰り返して退学になるあのエピソードだったんですよ。
実際問題として現実にはいるんですよ。ああいうタチの悪い不良というのが。そうしたダークサイドに触れてみようと。ただ、「BE-BOP~」のキャラはしょせんみんなに愛されてなんぼのキャラだから、そこまで悪質な一面をみせたらもう排除するしかないんですよ。もう世界観が違うわけですから」

(引用元 「俺たちの好きなBE-BOP-HIGHSCHOOL」(宝島社)より)



このマンガのすごいところはここにつきる。
ガキの頃からの付き合いの長い友達でも思春期の過程で、どうしようもない腐りきった小悪党になるものが、一人ぐらい出てくるものである。半ズボン姿の昔の無邪気な顔を知っているだけに、知らぬ間に手の届かぬ外道へと変わったことへの後味の悪さはずっと残り、誰もが大人になる過程でで経験する道なのだ。このリアルさの追求がこのマンガの魅力といえると思う。


その他にも「BE-BOP~」には名前だけ出てきて、最後まで登場しなかった人物が何人もいるのがまた興味深い。通常のマンガでは前フリをしておいて登場させないなんてありえない。しかし、皆さんの昔を思い出してもらえば○○中学の○○と派手なウワサと共に名前を聞くも、現在に至るまでお目にかかっていない人物はいないだろうか? この年頃の話は、誇張しながら伝わっていくもので、実在するのも怪しいこともある。

そしてこのマンガの最大の謎だった高校が通称:ヤクザ養成所の戸塚水産高校である。かなり初期から登場してくる学校だが、ネコ次ヘビ次の登場のみで、結局最後まで戸塚No1の岸直樹はほとんど登場しなかった。これについても興味深いインタビューがあった。



ーあまり出てこなかったキャラクターや学校がありますが、なにか理由があるんですか?戸塚水産とか。

「簡単に言うとすべてを明らかにしたくなかったんですよね。実際、僕の地元にも水産高校あったんだけど、そこにはいろんな高校を退学したヤツの集まりとウワサだった。でも実際はほとんど見た事なくて、ずっとなんとなく怖いというイメージだけがあった。戸塚水産もなんとなくヤバイという雰囲気を漂わせておきたかった。




田舎にとって駅をひとつ超えるとそこは別世界なのである。
城東工業高校を「与太高」、立花商業を「寺小屋」と呼んでいたように、勝手なイメージでその学校の愛称をつけ、結局そのウワサ通りの学校だったかは知ることなく、学生生活は終わるのです。

すべてを明らかにせず、ボカす部分をあえてつくるとは他の不良マンガにない独自のものだと思う。実際このマンガの主要メンバーの家族構成は、50巻も出ながら全く不明である。喧嘩だって全面戦争になる前にスカして終わることが多い。暴走族は一切出てこない。ヒロシ、トオルは最強のキャラではない。

こういった不必要な部分を排除し、盛り上がらなくとも無理のない現実的な設定がよりリアルに繋がり、このマンガが長年愛読されてきた理由にも繋がっているのです。


まぁでも、均太郎が消された理由は、モデルとなった知人への個人的な仕返しも、実は半分はあったんじゃないかと思っています。
この作者の人間臭さも、これまたリアルという事で(笑)


日本映画史上 最大のファンタジー映画は?

2007年06月25日 23:40

月曜は「七日間戦争」の初日である。
今日も会議用のメモ帳に"Revolution "と書き留めたが、インチキな重役たちに宣戦布告をする勇気は無かった。

月曜に「七日間戦争だ!」なんて口走る残念な大人は私ぐらいだと思うが、まぁ良くも悪くも映画は、自らお金を払って観に行くので、その内容は忘れても印象的なワンフレーズは覚えているものである。しかし、なぜか観てもいないのに私の記憶の中で強烈なインパクトと共に眠り続けている映画がある。


それは今から14年前の1993年 
この年は「ジュラシックパーク」が世界中で空前の大ヒットとなった。

20070626004425.jpg

あまりのリアルな恐竜の描写にまるで自分がそこで襲われているような錯覚に陥った。
それと同時にCGという技術は本物以上のものをつくるのだと、これからの映画に無限の可能性を覚えた。


時を同じくして同年の同時期、「ジュラシックパーク」公開中にぶつける形で、
日本発の恐竜をテーマにした巨大スペクタル作品をお披露目したのだ。




REX 恐竜物語 (1993年)
REXkyouryuu.jpg


もう画像オチの気もするが、REXさんのポテンシャルをこの程度だと思ってなめてもらっちゃあ困る。


キャッチコピーは
それは、地球からの贈りもの。レックス。ともだちは、レックス


まるで鈍器で殴られたような衝撃を覚えずにはいられない。


角川映画といえば、「セーラー服と機関銃」「時をかける少女」に代表される少女を題材にした物語で成功をおさめてきた。「セーラー服」と「機関銃の」異色の組み合わせでヒットしたのだから、「少女」と「ティラノザウルス(REX)」の組み合わせだって・・・・有り有り(笑)

しかし、この映画の最初の誤算は
原作者が、畑正憲ムツゴロウさん)であった事だろう。

ティラノザウルスと少女との間に芽生える友情とは、ムツゴロウさんが大麻栽培のエキスパートとの都市伝説にますます真実味が帯びてきた。


それでも、映画は多くの人間が携わって修正が効くものである。
この監督、脚本は「天と地と」で大ヒットを飛ばした、角川映画のドン、角川春樹であった。
彼の名前を前面に出すことで、不思議と文学的な匂いがただよってくる。

しかし公開直後、監督である角川春樹は、麻薬取締法違反・業務上横領などで逮捕
全国の映画館では上映が相次いで打ち切られたのだ。


そして映画主題歌は 
米米CLUB ときの旅路 ~REXのテーマ~

前年の「君がいるだけ」の大ヒットもあり、角川全面協力の大型タイアップを頂く形になったのだが、アルバム収録時には、「~REXのテーマ~」が大人の事情で省かれ、「ときの旅路」だけで収録されている事がこの映画の哀愁を物語っている。


しかし、この映画は大々的な宣伝の効果もあり、22億円もの興行収入を記録し、この年の興行収入BEST10に入るほどの成功を収めたのだ。
私は外部的な要素ばかりに目を取られて、肝心のストーリーは全く見てなかった。

見えないものを見ようとする誤解 すべて誤解だ

と思い直し、22億円を稼ぎ出すストーリーとやらをネットで調べると

<あらすじ>
原生林奥地の洞くつで発見した卵から、恐竜が産まれレックスと名付けられた。REXに食事を覚えさす為に、安達祐実は嫌いなピーマンを食べてみせる。(中略)~REXに迫っていたの大人の身勝手さに腹を立てた安達祐美は、レックスを生まれ故郷である北海道の原野に帰すことにする。(終)


おおおお・・自宅なのに思わず「オイ!!」と声が出てしまった。

肉食恐竜にピッ・・ピーマン?  ティラノザウルスを日本の原野に帰した??

ああ・・これを実際観たら、1000のつっこみは達成できそうだ。
どうやら当時、劇場を失笑の渦に巻き込んだ伝説にウソ偽りは無かったようだ。




日本映画史上 最大のファンタジー映画とは?


80年代の チェッカーズ in TAN TAN たぬき

90年代の REX 恐竜物語

00年代の ファイナルファンタジー(CGアニメ)


鈍器で殴られたような衝撃と、バールのようなもので強引にこじ開けてくる展開で
我々をファンタジーの世界へいざなってくれる、この3大巨頭を決して忘れたくない。

「が」と「で」の決戦だ!

2007年06月20日 23:49

もう自炊をしなくなってから何年経っただろうか・・
毎夜コンビニで、すかすかになっている残り弁当を見つめながら

これいいや・・

と小さく呟きレジに行く。



シャンプーがもう無くなっている。
高くとも気に入った一品を選ぶ心は、社会人になってからどこかに落としたらしい。
日用品は安くて大量が選定のポイントで、値段だけ流し見で即決


これでいいや・・


床屋は自分を際立たせる場所から、伸びたら立ち寄る場所に変わった。
「今日はどうします?」の問いに、「あ・・おまかせします(何も考えてない)」
「では○○○な感じでいいですか?」 (しきりに頷く仕草は見せるが、全く聞いていない) 
仮にスキンヘッドを勧められても、私の口から出る言葉は決まっている。

それでいいです・・




ふと、思った。

最近、「」 を使う機会が増えたなと・・



金八さんがどのシリーズだったか忘れたが、

」と「」の決戦だ!

と生徒に叱咤していたのを思い出した。


うろ覚えだが、受験をやめてとりあえず働くと言い出した生徒に、「これでいい」じゃ何をやってもだめだ。
これがいい」の心を常に持つ事が人生の糧になると。


ああ・・たしかに十代の頃は何をするにも「」が先行していた気がする。
床屋だって吉田栄作の切抜きを持っていって
これがいい」と言い、床屋さんを困らせていたことを思い出した。


あの頃は時間があったから、「~いい」を使えたけど、大人はそんな暇はないからしょうがないと思っていた。
だが、それは言い訳かもしれないと思い始めた。

わたしは昼飯は、いつも味など気にせず、社食をローテションしているだが、
短い昼の時間を使って「これがいい」と、外に出て常に新しいものを食べ歩く人がいる。
こういう人達は、いつもハキハキしていて仕事が出来る人が多いように思えるのだ。

まだ右も左もわからない新入社員の頃、人柄の良さで有名な人事部長にこんなことを言われた。
「常においしいものを探しなさい。食事が作業になったらダメだよ。」

このときは東京はおいしいとこが多いのかと完全に意味をはき違えて理解していたが、今はその本質がわかる気がする。

これでいい」と思った時点で、脳の成長はそこで止まる。
これがいい」は、さらなる「これがいい」の欲求を生み、
その欲求心が響き渡れば、ブルースは加速していくのだ。


人として覇気を失っていくのと、「で」の使用頻度はシンクロしている気がしてならない。
昨日の晩飯ですら何を食べたのか覚えてないのだ。たぶんテレビを観ながらのながら食いだったのだろう。
ああ・・最後に味わって食べたのはいつだろうか?

そこでわたしは脱バカボンのパパ宣言を決意した。


これがいいのだ!



さぁ、明日の昼飯は久々に外に出てみよう・・

ベストアルバムに巣食う利権

2007年06月18日 23:28

ベストアルバムといえば、耳に慣れたシングル曲ばかり集め、ターゲットもコアなファン以外なので、オリジナルアルバムと比べ売り上げを伸ばす傾向がある。諸経費と時間がかからない分、ドル箱商品であるが、そこにはレコード会社の決算期ときれいにシンクロした利権という魔物が渦巻いている。

私が初めてベスト盤に疑問を感じたのが大黒摩季だった。

BACK BEATs #1
BACK BEATs #1


大黒摩季にとっての初のベストアルバム「BACK BEATs #1」は初動売り上げだけでミリオンを達成した。
人の心 裏の裏はただの表だったりしてと痛感する私も当然買った。
ここまでは何の問題も無かった。

しかし、その4年後に発売された2枚目のベスト盤
MAKI OHGURO BEST OF BEST~All Singles Collection~」に目を疑った。


初回のベストが「~#1」なのになんで、なぜ今回は「~#2」じゃないのか? 
KinKi Kidsのアルバムの恒例であるアルファベット並びを突然やめられたような違和感を感じずにいれない。

そして、その収録曲をみて唖然とした。

MAKI OHGURO BEST OF BEST disk1

1,STOP MOTION
2,DA・KA・RA
3,チョット
4,別れましょう私から消えましょうあなたから
5,Harlem Night
6,あなただけ見つめてる
7,白いGradation
8,夏が来る
9,永遠の夢に向かって
10,ら・ら・ら
11,夢の続き


黄土色が、前回のベスト盤とかぶっている曲である。
こ、これは一体・・

その昔、華の命が短い80年代のアイドル達は2枚アルバムを出したら一枚のベストアルバムをリリースして、旬のうちに出せるものは出し尽くす手法で、小金を稼ぐのが通例だったが、今回のケースはそれよりもヒドい。どのような事情があったのかは知る由もないが、この2年後に大黒はビーイングを去っている事が全てを物語っている。


ベスト盤には公式ベストアルバムと、非公式ベストアルバムがあるのだ。
今回記述する非公式とは海外の海賊版の事ではなく、本人たちの知らぬ間にレコード会社がリリースするアルバムを指す。


FLASH BACKFLASH BACK
B’z

曲名リスト
1. イッツ・ノット・ア・ドリーム
2. ラヴ&チェイン
3. セーフティ・ラヴ
4. となりでねむらせて
5. 君の中で踊りたい
6. レディ・ゴー・ラウンド
7. ハリー・アップ!
8. ハーフ・トーン・レディ
9. ギターは泣いている
10. アウト・オブ・ザ・レイン(オフ・ザ・ロック・スタイル)
11. ギター・キッズ・ラプソディ
12. だからその手を離して

1. オー!ガール
2. 夜にふられても
3. ラヴィング・オール・ナイト
4. ナッシング・トゥ・チェンジ
5. ブレイク・スルー
6. ネヴァー・レット・ユー・ゴー
7. 君を今抱きたい
8. スターダスト・トレイン
9. セイヴ・ミー!?
10. バッド・コミュニケイション
11. ロージー
12. ダカラソノテヲハナシテ(オフ・ザ・ロック・スタイル)

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



1997年に過去に所属したレコード会社がB'zに無許可でリリースしたベストアルバムである。そんな事情も知らずこれも持っていました。このアルバムは無許可のリリースの為、ジャケット、歌詞カードに一切、B'zの本人達は出てこないのです。
B'zの所属会社も、ZARDのアルバムの発売日を急遽変更し、この非公認ベストアルバムに発売日をぶつけ1位を阻止した。しかし、皮肉にもB'zの初登場1位記録も8作で止めることになった。

そして、この1年後に「初のオフィシャルベスト」と銘打った"Pleasere" "Treasure"が発売され一千万枚の大ヒットすることになるのです。


ここ最近で一番有名なのは、スピッツの「RECYCLE Greatest Hits of SPITZ」 (リサイクル グレイティスト ヒッツ オブ スピッツ)だろう。

RECYCLE Greatest Hits of SPITZRECYCLE Greatest Hits of SPITZ
スピッツ

曲名リスト
1. 君が思い出になる前に
2. 空も飛べるはず
3. 青い車
4. スパイダー
5. ロビンソン
6. 涙がキラリ☆
7. チェリー
8. 渚
9. スカーレット
10. 夢じゃない
11. 運命の人
12. 冷たい頬
13. 楓

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



この騒動を知らない人の為に、このアルバム名の「リサイクル」はスピッツメンバーの希望で名付けられたと言えば、この軋轢の深さをわかってもらえるだろうか。スピッツのメンバーが公式HPで「出したくなかった」とまで言わしめたのに、なぜレコード会社は遺恨を残す事がわかっていても強引にリリースしたのか? 

これは当時のレコード会社の親会社が100%外資の会社で、決算時期にどれだけの圧力があったかは、ここ数年のスティールパートナーズの食い漁り方を見てもらえばわかると思う。

こちらも後に「メンバー公認のシングルコレクション」という名でベストアルバムを出しているが、やはり早い者勝ちであり、前者のアルバム売り上げにはメンバー公認であっても遠く及ばない。


そういえば、小室さんがglobeのファーストアルバムで、455万枚と当時の日本新記録をつくるも、後に宇多田ヒカルに抜かれるわけだが、globe初のベストアルバムをリリースにあたり「宇多田ヒカルを超える宣言」をしたが、結果は自分たちの自己ベストも超えられなかった。このベストアルバムが出たのもちょうどエイベックスが一部上場する時期で、業績が前年を越えなければいけないというプレッシャーがあったのは想像できる。


ああ・・
わたしは過去一体どれだけの、「決算期非公認ベストアルバム」を買ってしまっていたのだろうか。
コアなファンじゃないからベストアルバムを買うわけで、それが公認か非公認かの区別は非常に難しい。
レコード会社の決算に協力するか、しないか、の違いであって、よく考えたら公認のベストアルバムなんてものは、そもそも存在しないのでは無いだろうか?


そんなことを考えていたのだが、過去に公認ベストアルバムと呼べるものを見つけた。
猫も杓子もベストアルバムという近年の状況の中、その流れに逆行するある漢(オトコ)がいたのだ。

その漢は8年前、ベスト盤をリリースするにあたってweb上で「アコースティックで聴きたい曲」をファン投票で集計するも、
その結果を一切無視し、「俺の選んだ曲を聴け!」と周りに一切耳を貸さず自ら選曲した。

さらに、タイトルにベストやグレイテストヒッツなどの常用の言葉を一切排除し、
俺の太陽」というベストを見事に自分の言葉に置き換え、抜群のネーミングセンスをみせた長渕剛こそ、
真の本人公認ベストアルバムの称号を与えるべきだと思います。



アコースティック 俺の太陽


「ワン、ツー・・ スリー?」 に隠されたプロの技

2007年06月16日 19:24

1961年4月12日 人類として初めて地球を外から見たガガーリンは、「地球は青かった」といった。

(´ー`) 宇宙船地球号の乗組員として、環境にやさしくなろうと思った・・


1969年7月19日、初めて月面着陸したアームストロングは、「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と言った。

(´ー`) 21世紀は宇宙に住む時代が来るのだと、胸の高鳴りを抑え切れなった・・


1998年 5月某日 傷害事件での釈明会見で、記者の「何発殴ったのですか?」の質問に

ワン、ツー・・、 スリー?

と答えたアーティストを見た。


( ´ゝ`) 翌年に訪れる1999年のノストラダムスの予言は、間違いなく起こる事を確信した・・




哀川翔、氷室京介 、オール巨人・・芸能界では強さを物語る武勇伝には事欠かないものが数多くいる。しかし、そのほとんどは有名になる前の話で人の伝聞で成り立っている為、脚色が加わり大げさに伝わっていくものである。有名人である彼らが武勇伝を起こした時=傷害事件が発生した時で、最強の称号と引き換えに芸能活動を終焉しなければならない為、その武勇伝の真偽を確かめるのは事実上不可能である。

だが、一人だけ実際に事件を起こし、その武勇伝を実証してみせた男がいた。

その男こそ、吉川晃司 である。

10年近く経ち、だいぶ風化した感のあるこの事件を、もう一度ちゃんと振り返ってみたい。


当時、この事件の第一報はこのような内容で世間に伝わった。

吉川晃司(当時33)自宅マンションで知人と喧嘩。
鼻骨やろっ骨が折れるけがを負わせ、書類送検された。


普通の人ならこの事実をなんとなく覚えている程度だと思います。いや、そんな事があった事を知らないほうが大多数かもしれません。ファンであった私ですら、これを聞いた時は苦笑いする程度でした。

しかし、この事件で後日釈明会見を行った吉川だが、その口から語られた事件の詳細が、後に語り継がれる事となるのです(笑)


<記者会見で明らかになった事実>

・その知人Aさんというのが元ボクサーであり、一方的に殴ったのではなく、殴り合いになったという点

・冒頭でも触れた通り、「ワン、ツー・・スリー?」の異例の回答と、たった3発で終わらしたという点。

・「泥酔していたといわれているが、それも違う。 自分は『真露』2、3本なら大丈夫。25%ぐらいの酒ならね」と発言。決して酔っ払い同士の泥試合ではなかったという点



この事実を踏まえてわかる事があります。長くなりそうなので先に結論を書きます。
これは素人の喧嘩ではなく、プロによる仕事だったのです。

20070616165558.jpg
射撃訓練する吉川   (PV 「KISSに撃たれて眠りたい」より)

ボクシング経験者と殴り合いになったというのに、自分は無傷で記者会見に望み、相手には鼻骨、肋骨を骨折の重傷を負わせ、一ヶ月の検査入院を余儀なくされた。しかもそれはたった3発で2ケ所も骨折させたという仕事ぶりであった。

ここからはわたしの推測(妄想)に入る。


通常、素人同士のケンカで顔面を殴る時は、頬に集中する。人間というものはどこかで恐怖心があるため、眼や鼻という場所はいくら興奮状態でも無意識に避けてしまうのだ。それが常人の喧嘩である。その点、初弾を鼻に打ち込むとは、愚地独歩なみの実践空手の考え方である(吉川は少林寺拳法の使い手でもある)。そして一撃で鼻を折るほどのパンチであるから、ひねり(回転)と腰(体重)がのっていた事は容易に想像できる。

そして、もっと興味深かったのが肋骨の骨折である。元警視庁にいた経緯を持つ北芝健の書物を紐解いていると興味深い記述があった。取調室などで暴れるヤクザや凶悪犯を大人しくさせるときは、必ず脇の下をピンポイントに強く殴るというのだ。この理由は簡単で、どんなに強打してもアザが出来ず(証拠を残さず)、尚且つ、吐血を伴うほどの激痛が一瞬で体中に走り、どんな巨体の男でも一発でダウンし、のた打ち回るという。そう、脇の下とはその筋のプロが好むヒットポイントなのだ。吉川が鼻の後になぜここを狙ったのか?そして、たった3発で仕事が終わった理由は理解してもらえたと思う。


「一方的に殴ったわけではない。相手もボクシングをやっていて、 お互いに腕に覚えがあるから」の釈明からわかるように、Aさんは結果的に被害者になってしまったといえる。普通ならAさんが加害者になっているはずである。その証拠に、重傷であるAさんが自ら110番通報(助けを求める)している。

「ワン、ツー スリー?」発言後、3発のパンチを打つ動作を確認しながら「こう、こう、こう、、、うん、3発殴った」とその事件当時の動きを実際にやってみせた。バキを愛読されている方はご存知の通り、実在しない相手を仮想してイメージトレーニングする方法は、上級者クラスになるとそのあまりのイメージ力に本人以外にもその仮想の相手の姿が見えるという。そう、私は見えてしまったのだ・・。現役時代を彷彿させる渾身のストレートを放つもすでに吉川の姿は視界から消え、驚く間もなく急所を突かれていくAさんの姿が・・


「水中だったら、ヒクソンにも勝てる」とテレビでよく笑いながら豪語している吉川だが、
その笑顔と裏腹に眼が笑っていないのを私は見逃していない。
吉川語録はすべて事実のみを語っているのです。

そう考えると、今から20数年前の彼の芸能界デビューの設定

広島から東京湾までバタフライで泳いでやってきた


20070617023502.jpg
(映画「すかんぴんウォーク」(1984年) 冒頭の登場シーンより)

これも真実なのです。

れいかん やまかん とんちんかん

2007年06月12日 22:25

折口会長の連日のお詫び行脚の様子を見ていると、しばらく雲隠れしていた時に、数年前のまだ生き生きしていた折口氏の映像がずっと流れていたせいか、今のその死んだ目が強く印象に残る。
どんな心労が重なればあんな目になってしまうのかと、朝の満員電車で高度圧縮されながらボーと考えていたが、ふと正面の窓ガラスに目をやると、そこに折口氏と全く同じ目つきの自分がいた。ああ、そういう事か・・人は覇気を無くすとあんな目になるらしい。意外と近くに答えはあった。

折口氏といえばジュリアナ東京の仕掛け人として、バブルを象徴する映像と共にその経歴を紹介されることも多い。地方在住のわたしにとってのジュリアナ東京は、「トゥナイト2」などのテレビでその様子を間接的に見ているだけだった。今で言うヒルズ族のようなその時代を象徴する場所だったと思う。いつか自分もあの場所に行ってみたいと思っていたが、ご存知の通り1994年にジュリアナ東京はその短い幕を閉じた。自分がいざその土地に降り立った時は、その残り香すら嗅ぐ事が出来ない状況だった。

タワーレコードなんて行くと「ディスコ80's」なんてタイトルのアルバムが行く度に新しいのがリリースされている。ディスコ世代の人たちにとってディスコサウンドは、その音楽と共に若き日の踊り明かした自分が蘇ってくるので、金太郎アメのようにいくら同じものがリリースされようとも購入意欲を刺激されるのだ。どうもダンスミュージックというのには劣等感がある。パラパラ、ユーロビートなんてものあったが、知らぬ間に通り過ぎていて、今じゃ竹の子族との区別がつかない。ブレイクダンスは骨が硬いから無理だ。レゲエは髪が痛むからイヤだ。素人がかなり偏った思い込みとひがみで書いているので、許してほしい。


折口氏から始まり連想ゲームのようにボヤいているが、何が言いたいかというと、わたしはディスコやクラブに行ったことが全く無い!という事だ(笑)
そしてそれを時代のせいにしようとしているのだ。

踊って楽しむという空間に、ことごとくすかされてきた気がするのだ。最後に踊ったのは中学の頃の山の家でのキャンプファイヤーぐらいだ。ダンスという事に関しては本当に縁がなかった。そのくせ、「フラッシュダンス」は幾度も観たし、荻野目洋子のダンシングヒーローは十八番だ。踊り明かそうなんてよくある歌詞をカラオケで歌う度に、その経験が無いのでなんだか切なくなる。これは私の生きてきた時代というよりかは、わたしだけなのかもしれない・・。それぐらいの客観視は出来る子である。
ただ学生時代の友人の間でも踊るというキーワードに関しては、ほぼ出なかった。生きてきた時代というよりかは、その時に在住していた地域によるものが大きいかもしれない。今後、社交ダンスに興味を持つとは思えぬため、ダンスという事に関しては一生無縁だったことになりそうだ。。


そんなわたしが、唯一ダンスという文化に触れかけたのが、ダンス甲子園というTV発の一種のムーブメントだった。M.C.ハマー、 C+CMUSIC FACTORYなんてあの番組で使われていた曲を聴くと オヤジたちがジンギスカンを聴いて高揚するのと似た感覚になる。


「制服対抗 ダンス甲子園」のはずが、中期以降は制服などのルールは一切無視され、大本である高校生というルールすら全く守られていなかった事など今となってはどうでも良い。この企画の初期の頃を支えたあのチームについて振り返りたい。


yamakan.jpg

れいかん やまかん とんちんかん

本格派ダンスチームはT-BOYS、インペリアル、L.L BROTHERSとそのチーム名も横文字中心にかっこよさを求めたものが多かったが、それゆえに似たり寄ったりで今はほとんどその名を覚えていない。その点、この「れいかん やまかん とんちんかん」は抜群のインパクトに加え、ユーモアセンスも感じられる。そしていつまでも耳に残る韻をふんだ言葉遊び。ネーミングの才を感じずにはいられない。

どんなメンバ-で構成されていたのか、その後の活動と共に振り返ってみたい。
メンバーは全員で4人だったが、一人はその後芸能活動には携ってなく、現在一般人だと思われるので、伏せさせてもらいます。敬称は年齢的に考えても「~さん」なのですが、当時を思い出す意味でもここでは「~君」と呼ばせてもらいます。

reikannyamakan1.jpg


田中傑幸 (左)

このダンス甲子園の企画初めはL.L BROTHERSをうまくデビューさせるための企画だったという事はL.L本人達も認めている。そんな大会で、れいかん やまかん とんちんかんは第一回・第二回と全国大会準優勝チームであり、L.Lが既に高校生じゃなかった事を考えると、実質的な優勝であったといってもよいと思う。そしてこのチームにとっての田中君とは杉山清貴&オメガトライブの杉山清貴、いや、1986オメガトライブのカルロス・トシキ的存在であったのは言うまでもない。
そのリーダーである田中君は、その後俳優業に転向し、ドラマで今井美樹の弟役として出演していた記憶がある。私の記憶はそこで途切れているため、その後の作品は何があるのかと少し検索してみたが、一発目に出てきたのが、吉田栄作 主演の「代打教師」(名門高校の落ちこぼれ生徒が集まる“Z組”にやって来た熱血代打教師が~)のちょい役と知り、検索の指を静かに止め、コーヒーを飲みながら、これ以上の捜査は痛みを伴いそうなので打ち切ることを決意した。現在はプロのダンサーとして、またその名を広めているようだ。


永田雅規 (中)
ミクスチャー系バンド「JINDOU」として(「遊戯王」「ボーボボ」のOP曲を担当)に参加。日本ゴールドディスク大賞のニューアーティスト・オブ・ザ・イヤー受賞した経歴を持つ。音楽の道へと進み、実績も残している。


小笠原秀春(右)

リーダーの田中君の存在感が大きすぎたせいか、その他のメンバーの顔すら覚えてない方がほとんどだと思うが、小笠原くんはその後、いいとも青年隊を務めた経歴がある。岸田健作と共に「WithT」を結成し10代目いいとも青年隊として活動。その後の活動は岸田健作の今の所在すらつかめないのに、小笠原くんの現在を知るのはもっと困難そうだ。


結局、ダンス甲子園のビデオ4本を購入するまで熱を入れたが、彼らの唯我独尊なダンススタイルを真似出来るはずもなく、自分の才能の無さを知るまでに3日とかからなかった。そんな事よりも衝撃だったのは、地方の狭い文化で育っていた自分は、学生服の最先端の着こなしはモヒカン頭の鹿島優みたいな短ラン、ボンタンだとてっきり思っていたのだが、それがとんでもない勘違いだった事をツーブロック頭と細いズボンの東京代表だった彼らに教わった。そう、髪型、制服の着こなしもこの頃非常に地域差があり、そのブレを正す役目も果たしていたのです。

「つっぱり大相撲」の3つの快挙

2007年06月06日 23:32

家庭用ゲームソフトにおいてスポーツというジャンルは、もはや王道中の王道である。
野球、サッカー、ゴルフ、テニス、それぞれにいくつもの代表する家庭用ゲームソフトが思い浮かぶ事でしょう。

しかし、ふと思った。
相撲を題材としたゲームは家庭用ゲームソフトでは何があるのかと思い返してみると、ひとつしか思い浮かばなかった。

oozumou.jpg

つっぱり大相撲』 ファミコン (1987年 テクモ)

これだけである。あのナムコのファミリーシリーズ(ファミスタ、ファミリーテニス、ファミリーボクシングなど)でさえも、相撲には手を出さなかった。
相撲はそんなに不人気なスポーツだっただろうか?

いや、千代の富士黄金期、若貴ブームなど人気が絶頂だった黄金期を過ごしてきたはずだ。
それにしては相撲ゲームは圧倒的に少なすぎる。
そんな背景を踏まえて、このつっぱり大相撲には3つの快挙があったといえる。


家庭用ゲーム機として初の相撲ゲームに挑戦、成功という快挙
相撲は土を付いたら負けというルールもあり、押し出したら勝ちというそのスタイルは、ゲームにしたとき非常に地味になってしまいます。当時のファミコンの世界で奥行きや斜めの動きを再現するのは困難で、各メーカーが放棄した相撲というジャンルで唯一成功をおさめたのです。
これが一つ目の快挙であり最大の快挙ともいえる。感服するのがそのゲームバランスで、15試合全勝はほぼ不可能に設定されており、後に記述する逆転一発技で起死回生の金星が狙える。それだけでも、十分すごいのだが、このゲームには他にもあまり知られていない、その後のゲームに影響を及ぼした快挙ともいえるシステムがあった。


漢字の使用の快挙
ファミコンは容量の関係で、漢字はなかなか使えなかったが、このゲームでは45文字と制限はあったものの、海や山など相撲で多様される漢字が多く採用され、しこ名には困らなかった。
「百代富士」「大腹黒」「手雲山」などの名前が記憶のどこかで苦痛の思い出と共に眠ってはいないだろうか?

 
元祖格ゲースタイルを築いた快挙
「ぶれーんばすたー」「じゃーまんすーぷれっくす」のプロレス技とまわしを取ってしまう「モロダシ」の禁じ手。相撲の地味さを吹き飛ばすテクモのアイディア勝ちだったと思う。これらの技をだすにはコマンドが必要だったのを覚えているだろうか?
体力ゲージによる優越の表示、1対1でコマンド方式による技の優越。後の格闘ゲームにかなりの影響を与えていたのだ。
burenbasyta1.jpgmorodasi1.jpg



テクモといえば、「キャプテン翼」(ファミコン版)が思い浮かぶ人も多いと思いますが、その独自のゲーム性はあの当時は他に類をみない独自なゲーム性であったと思います。「つっぱり大相撲」はこの「キャプテン翼」の製作中に急遽発生したプロジェクトで、たった2ヶ月という短期間で仕上げ、キャプテン翼よりもはやくリリースしてしまったというのです。そういえば、エンディングでパレードの沿道の中に翼くんがいた様に記憶しています。
注目すべきは困難といわれた相撲の当たり判定のプログラムが、行き詰まっていたキャプテン翼の勝敗判定システムにそのままうまく当てはまってしまったというのです。悪いことはさらに悪いことを呼ぶように、成功もおもしろいようにスパイラルしていくようです。

それにしてもテクモとはヒット数こそ少ないですが、「マイティボンジャック」のように他に類を見ない作品を排出した記憶に残るメーカーであったといえます。

年齢不詳の思惑と困惑

2007年06月04日 22:38

ここ最近YOSHIKIの動向が騒がしい。

「X JAPAN」復活 年内にライブ

97年に解散した人気ロックバンド「X JAPAN」が復活する。YOSHIKI(年齢非公表)は「ぼくの意志は固まっている。ファンの人生でもあったバンドだから、慎重に意見を聞きつつ復活の準備を進めている」とし、初めて「復活」の言葉も口にした。今年3月には、米ロサンゼルスで元ボーカルのTOSHI(41)を招いた
YOSHIKIは「hideが亡くなってから、ファンからは“再結成したら殺す”とか“再結成しなかったら死ぬ”とか、どっちにしても過激な意見が多かった。

スポニチ



最後の一文がうかつにも笑ってしまったので今日はこの記事から始めたい。

久々に表舞台に出てきそうなTOSHIのここ10年の放流ぶりをイジりたい気持ちを抑えて、この記事でYOSHIKIの実年齢を知った事から広げたい。昔から年齢非公表なYOSHIKIだが、同学年のTOSHIの年齢を知った事により、わかってしまったと言った方が正確かもしれない。しかし、まぁ妥当な年齢だと思った。

年齢不詳、謎のプロフィールといえば、ZARDの坂井泉水が思い浮かぶところだが、残念な形でその今年40歳という実年齢が世に知れ渡ることとなった。悲報とともにその年齢を言われても、妥当なのかどうかよく判断できない。そこでアイドルとしての道を一度断念した経緯のある坂井の、同年代にあたるアイドルを調べると、彼女の生きてきた時代が見えてくる。
坂井と同年代のアイドルとしては、早見優、国生さゆり、斉藤由貴などがそれにあたる。早見、国生なんて私でも世代的に違う、一世代上のアイドルである。そう考えると、坂井の90年代の遅れてのブレイクは思慮深い。

偶然にも年齢不詳のこの2人がここ最近の音楽ニュースを騒がしている。
年齢不詳といえば、あの男はいくつになったのだろうか?

TAKASHI UTSUNOMIYA THE BEST“FILES”
そう、T・UTUこと宇都宮隆だ。

調べてみると、1957年生まれ、今年50歳になる事が判明した。これは驚いた。今まで年齢非公開にしてた訳ではないだろうが、これは本当に意外だった。逆算すると『Get Wild』のあのヒットの段階ですでに30オーバーだった事になる。そういえば、あの当時から年齢は見えなかった気がする。既に昨年、50の壁を超えている歳相応の大友 康平や桑田 佳祐に比べてもその衝撃度は比較にならない。そうなると、同級生の木根さんも今年50だし、小室さんは来年にそうなることになる。ああ、そうなると小室の同学年のチャゲアスも来年大台を迎える事になる。

それにしても、宇都宮隆がオール阪神と、いや・・それよりMr.オクレと同い年と考えると、その後の

アルフィー高見沢 俊彦(1954生 現53歳)

浜田省吾 (1952生 現55歳)

ミック、 ジャガー(1943生 現64歳)

と年が見えてこない熟年ロッカー路線を順当に歩んでいるようだ。
跡継ぎとしては、カールスモーキー石井(48)、KONTA(47)、氷室京介(47)辺りも育ってきているから一安心だろう。


ネットがなかったあの時代、年齢不詳というプロフィールは本当にわからなかったし、それゆえピーターパン・シンドロームのような「あの人は歳をとらない」という錯覚に陥り、永遠のアイドルと成りえた。しかし、今やネットの発達で、誰にでもすぐに答え合わせができる。過去、プロフィール欄をにぎわせた年齢不詳という思惑は、皮肉にも今やピーターパン・シンドロームを覚ます一番の特効薬となっているのです。


最新の記事


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。