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ユニコーンといえば、バンド全盛期のその時代でも少し異色な存在で、「ヒゲとボイン」「大迷惑」に代表されるように
そのくだけた歌詞と、少し脱力系とも思えるメロディーが特徴だったと思う。
代表曲である「雪が降る町」「すばらしい日々」などは、今でも街中で聴く機会も多い。
ユニコーンをカヴァーするアーティストも数多く存在し、彼らの代表曲はあらゆる方法で後世に残っていく。
ただ時代が過ぎるといろんなものが削げ落ちていき、その代表曲といわれるもののみが伝わっていくのが宿命だ。
そこでこのブログの存在意義が問われるところだ。
当ブログとしてはあえて、
一番ユニコーンらしくない一曲を選曲し、
ユニコーンを知らない世代のために、後世に残しておきたい。
それはシングルカットすらされていない初期の時代の作品
「
Maybe Blue(メイビー・ブルー)」である。
Maybe Blue(You Tube) 「めちゃくちゃメジャー(代表曲)だろ!!」と即座にツッコミを入れたであろう30代以降の皆さん。少し黙っておいてください(笑)あとで「元祖EBIちゃん」や「服部さんの今」について好きなだけ語ろうじゃないですか!付き合いますからw
そう、この曲が出た時に生まれた子供は既に成人しているのですから・・
話戻してこの曲は、まだキーボードの女性メンバーも在籍していたユニコーンの一番初期の作品で、中期以降のユニコーンや今の民生では想像できないほど、
速いテンポと激しいリズムを主体とした作品ばかりだった。バンド全盛期で育った少年少女にとって、この曲の持つメロディーは一度聴けば決して忘れられない完成度の高いものであった。これほど色気が帯びて、かつ切ないメロディーをあの民生が唄っていたのだ。後にこの初期の頃の曲はLiveでもほぼ封印され、ベスト盤「ザ・ベリー・ベスト・オブ・ユニコーン」の一曲目に収録された訳だが、これは会社側とファンの強い要望で民生がしぶしぶ了承したという経緯がある。
パーカーをダラシなく着こなす起源はこの頃の民生とされており、後にTHE FUSE 、KusuKusu へと進化を続けて今のラッパー達へ受け継がれたとされる。それはさておき、数少ない「Maybe Blue」を聴いてからユニコーンを知った世代としてはこれを伝えていかなければならないという脅迫概念にかられるのです。
(おしまい)
ザ・ベリー・ベスト・オブ・ユニコーンユニコーン UNICORN 奥田民生
- 2007/05/17(木) 20:27:10|
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一度でいいから年上のお姉さまに言われてみたいセリフがある。
「
ちょっと場末のシネマしてるね」 と。
たった一言ながらどれだけ非日常で、なおかつ刺激的なセリフなんだろう・・
私がいくらハードボイルドに生きてみたって、所詮はラビット。
「あなた売れないジゴロみたいね」とあしらわれるだけだろう。
日本がバブル経済への階段を上り初めていた1984年
アンルイスのヒット曲「
六本木心中」はこの年に生まれた。
この年は
「六本木CRY」 シブがき隊
「雨の西麻布」 とんねるず
「六本木純情派」 荻野目洋子
など六本木を題材とした曲が数多くリリースされていた。
その中でもこの「六本木心中」は、今でもカラオケで歌われる定番ソングとなっている。
この曲の持つパワーって、本当にすごいものがあると思うんですよ。
作曲は、吉川晃司に「モニカ」、「ユー・ガッタ・チャンス」、ハウンド・ドッグ「浮気な、パレット・キャット」などを提供した事でも有名なロックバンド
NOBODY作詞は「恋におちて」(小林明子) 「センチメンタル・ジャーニー」(松本伊代)など独創的な歌詞を創る事で有名な
湯川れい子この黄金コンビは同じくアンルイスの「あヽ無情」でもタッグを組んでいる。
この曲は歌謡ロックという特殊なジャンルを生み出した曲でもあり、これ以上の曲は未だない。
たしか数年前に今の時代で考えれば適役であろう相川七瀬がこの曲をカバーしたが、
相川のワイルドさを持ってもいまいちしっくりこなかった。
やはりあの時代に、アンルイスが歌うからこそ、この曲は活きてくる。
そしてこの曲のポテンシャルをあますなとなく発揮した瞬間を今でもはっきりと覚えている。
それは夜ヒットでアンルイス+吉川晃司でコラボした時だ。

なぜこのコラボがこの曲のポテンシャルを最大限に出せるのかというと、いくつか理由がある。
吉川晃司といえばアン・ルイスの弟分とも言われ、彼が音楽事務所ではなく、芸能事務所であるナベプロに入った理由は「アン・ルイスとジュリーがいるから」と本人は言っている。
アンルイスは既婚だったが六本木に吉川を連れまわし、その姿をみて作詞家の湯川けい子がこの詩を書いたとされる。
その証拠に、この曲のイメージは
女性に命がけになる年下を描いた歌である。この2人が歌った時点で、もはやこれはノンフィクションの歌なのだ。
吉川の担当は主にハモリ&コーラスとなるわけだが、以前「
BE MY BABYの衝撃」で紹介した通り、彼がフリータイムをおとなしくしている訳もなく、生放送ギリギリの内容でアンルイスと濃密にカラミだす。

この放送は後にダイジェスト版で幾度も放送され、この時の2人のエロパフォーマンスもあいまって、六本木、バブルなんて知らない当時の子供たちの脳裏にも焼きついており、大人になった現在、つまらない日常から刺激を求めて夜の街を彷徨うときに自然と「六本木心中」を唄いたくなるのです。
こうして23年経った今でもこの歌は夜の街で歌われ続け、愛され続けているのです。
- 2007/04/23(月) 22:19:16|
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僕が特定のロックバンドにのめり込むキッカケは、いつでもバラードにある。
『時間よ止まれ』を聴いた時に、僕の中で矢沢がE.YAZAWAとなった。
『CLOUDY HEART』を聴いてからは、胸にしみる事がある度「こりゃなに?」と呟く様になった。
良作のバラードに出会うことの出来なかったロックバンドとは、一時的な短い付き合いで終わっている傾向がある。
前振りはこの辺で、今回紹介したいのはXの「
ENDLESS RAIN」である。

このブログで曲を紹介する時は毎回テーマを決めて書いているのだが、
今回は「
外野を黙らせたこの一曲」として書いてみたい。
Xが最初メジャーデビューしたとき、私はその姿形からキワモノとしか見ていなかった。
メジャーデビュー曲である「紅(くれない)」を歌う姿をMステでみた時は、その奇抜な髪型、メイクばかりに目が行き、全く音楽が耳に入ってこなかった。カラオケで歌うときに「リンダリンダ」同様に、バカ騒ぎしたいときに「紅」のスローテンポから突然タテノリに変わる部分を茶化して遊んでいるだけだった。そう、私の周りではXとはそういう存在でしかなかった。
私も含めそんな世間の勝手な偏見を一蹴したのが、2ndシングルの
ENDLESS RAINだったと思う。
Endless Rain X JAPAN -PV(YouTube)この曲を聴いてXのイメージが一変したのをよく覚えている。
こんなきれいでやさしいピアノイントロは過去知らない。
その繊細なピアノに、途中から加わるTAIJIベースがなんとも心地よい。
前奏の段階で聴くもの全てを引き寄せるそのメロディにやられていた。
間奏のHIDEとPATAのギターソロのハモリは、まるでギターが声を出して歌っている様に聴こえる。
聴き終わった後に、雨に打たれて全てが洗われる気になってしまうから不思議だ。
この曲の「静」の部分の評価があるからこそ、彼らの「動」にも興味を持ち出すのです。あれほどバカにしていた友人達がいつの間にか「BLUE BLOOD」を持ち歩いてるのを目撃した。見掛け倒しではない音楽性の確かさがそこにあったのです。たった一曲で彼らへの偏見を吹き飛ばすこととなったのです。
その後のXの出すバラードは本当にスベリ知らずだった。
Tears
Forever Love
Say Anything
Crucify My Love
Longing
THE LAST SONG
ロックの魂は「バラード」にも宿るのです。
- 2007/04/19(木) 20:43:30|
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1989年 7月第2週のシングルチャート
1位、世界でいちばん熱い夏 -プリプリ
2位、ANNIVERSARY -松任谷由実
3位、Diamonds -プリプリ4位、嵐の素顔 工藤静香
5位、トラブル・メーカー 南野陽子
6位、夢の中へ 斉藤由貴
7位、ごめんよ 涙 田原俊彦
8位、Return to Myself 浜田麻里
9位、さよならベイビー サザンオールスターズ
10位SUMMER CITY TUBE
この週のランキングは、時代が入れ替わった象徴的なチャートだったと今でも記憶している。
80年代のユーミンのすごさを改めて語るまでもないと思うが、アルバムを出せば新記録を塗り替え、女性の聴く音楽といえばユーミンといわれていたほどの占有率があった。80年は「女性がロックなんて・・」と言われていた風潮があったのだが、この年はプリプリがユーミンを挟むというガールズバンドのムーブメントが絶頂期となった年だった。
結局この「Diamonds」 「世界でいちばん熱い夏」は1989年オリコン年間チャートで1、2フニッシュとなった。前年の1988年は光GENJIが年間チャートの1〜3位を独占しており、この年のバンドブームの勢いの凄さがわかる。
もちろん、今でもガールズバンドというのは存在しているが、成功しているのはアイドルとポップさを売りにしているバンドが多く、ロックを打ち出して成功した例は、80年代に集中している。
おおざっぱだがに、日本での女性ロックシンガーの流れを振り返ってみたい。
<80年代前半>
山下久美子
↓
<80年代中盤>
浜田麻里
中村あゆみ
レベッカ
バービーボーイズ
パーソンズ
SHOW-YA ↓
<80年代終盤>(黄金期)
プリンセス・プリンセス PINK SAPPHIRE(ピンクサファイヤ)
GO-BANG'S (黄土色は女性のみのメンバーで結成されているバンド)山下久美子、SHOW-YAの先人達の作った道があったからこそ、80年代後半のガールズバンドの商業的な成功があったのです。90年代に入るとガールズロックバンドは沈静化していき、JUDY AND MARY 、 椎名林檎などの形体へと変わり時代に合わせたロックへとバトンタッチしていったのです。
あの頃誰もが口ずさんだ「Diamonds」で、「ブラウン管じゃわからない」が、今やプラズマ、液晶テレビが主流となり、「針がおりる瞬間の〜」とレコードの針から、ボタンひとつで何千曲と聴けるiPodへと様変わりしましたが、初めて電話する時にはいつの時代も震えるのです!
昨今、「NANA」のヒットにより80年代のガールズバンドのかっこよさが改めて見直され、ガールズバンドが再燃しているのに時代は回るんだなと感じさせられます。
- 2007/04/02(月) 21:40:29|
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BOØWYは 1988年 東京ドームの「LAST GIGS」において解散した。
これはライブを中心に地道にやってきた彼らなりのケジメともいえる興行で、ファンへの感謝を込めた最後の打ち上げ花火的なものであったといえる。
1987年 12月24日 渋谷公会堂クリスマスでのこの解散宣言が、事実上の解散ライブだったとも言える。
今回「LAST GIGS」よりも、このライブにスポットを当てて書こうとしてるには訳がある。「LAST GIGS」は昔から色合いが粗悪なダビングを1000回はされたであろう裏ビデオが全国に流れていて、後にDVD化されても目新しさという意味ではさほどなかった。この「1224」のDVD化は、今から5年前の2001年に発売され、ファンとしては待ち望んだ伝説の一夜の幻の映像となっている。
1224BOOWY

解散宣言に至る経緯を私の持つ書物をひも解いて、改めて振り返ってみます。
アルバム「JUST A HERO」の完成度に音楽的な自信を持ったBOOWYは、次は商業的成功を目指すこととなる。そして次作の「BEAT EMOTION」(1986年11月08日)が見事一位を獲得し、シングル「マリオネット」のヒットと共に彼らの目標は全て達成されていた。
地元群馬時代からの仲間でもあり、BOOWYのマネージャーを務めた土屋氏によると
−−何故、BOOWYはCDセールス絶頂期のあのタイミングで解散を決めたのですか? との問いに、
「よくあるお金や女のことなんていう理由では決してなかったですね。実は「解散」って言葉はそれよりずっと前からことあるごとに軽く出ていましたから。0か100かなんですよね、常に。ロックバンドがまだ根付いてない日本でその場所を見つける事が出来たら解散という意識が彼らにはずっとあった。」
翌年のアルバム「PSYCHOPATH」はこれが最後として作られたアルバムであり、ツアーの初日から解散は決まっていた。では、何故初日に解散を発表しなかったのかといえば、苦心して作った「PSYCHOPATH」を解散興行ツアーみたいにしたく無かった。その為、このツアーの最終日である12月24日 渋谷公会堂に発表することとなる。
しかし、クリスマスを待たず、ツアー途中にファンの間で解散の噂が広まる。
キッカケは事実上ラストシングルとなった「季節が君だけを変える/CLOUDY HEART」の意味深なタイトルの発売であった。CLOUDY HEARTは氷室の同棲していた相手との別れを歌った曲というのがまた拍車をかけたのだ。
そして決定的だったのが、写真誌「FRIDAY」にて解散の噂をスッパ抜かれたのだ。そしてこの最終日渋谷公会堂には、解散を信じたくないファンが、会場の外まで詰め掛けることとなる
このライブで氷室がどの曲の後で、どのタイミングでどんな事を言うのかは、他のメンバーすら一切知らされてなかったという。
アンコール登場に氷室は
今日は、みんなにちょっと言わなきゃいけないことが、ひとつあって・・・。(ざわめく観客)
6年間・・・6年間・・・・・・6年間、BOOWYをやってきました。
誰がなんと言おうと日本で一番カッコイイバンドだったと思います。
高橋まことと・・・それから松井恒松と・・・布袋寅泰と・・・氷室京介が、4人が・・・。
4人が、思い切り4人でできる音楽を6年間やってきました。
しゃべりながら声が詰まり、正面が向けない氷室と、
腕を組んで観客から背を向けるしかない布袋のこのシーンが象徴的である。
これから、ひとりひとりが、ひとりひとりの為に、今まで4人でしかできなかった音楽をやってきたように・・・、
ひとりひとり、これからやって行こうと思います。もう泣き出しそうにだった氷室は、この異様な空気を振り払うように最後にこう言って解散宣言を終えた。
フォークのバンドじゃねーんだから、ジメッとすんのは似合わねーと思うから!
最後に、ビシッと贈るぜ!Dreamin'!!」たったこれだけの言葉にどれだけの時間を費やしたかはわからない。
このライブ映像には「LAST GIGS」にはない悲壮感と緊張感が漂ったものとなっている。
この直後のインタビューで氷室は
「売れていたら解散してないと思う。まだ新宿ロフトでやっていたんじゃないかな。だから売れた売れないよりもというより、実数が上がった事によって回転が速くなってやりたいところまで行き着いてしまったと思う。だから、後1〜2年やったらカッコ悪くなる気がするし、だからやめたんだよ」
私は1987年、ニュースステーションで久米宏からこの解散を知りました。この解散宣言は、リアル世代じゃなかった恐らくBOØWYファンが本当に一番見たかった映像でもあり、解散から15年後にリリースされたこのDVDは彼らからの最後のプレゼントだったと思っています。
- 2007/03/31(土) 20:38:21|
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倖田來未のブレイクで、
エロかっこいいという言葉が、あたかも新ジャンルの様に扱われるが、
エロかっこいいとは昔から
バービーボーイズの為にある言葉だと言っても過言じゃない。
BARBEE BOYS(バービーボーイズ)は、80年代の日本のシーンを代表する5人編成のツインボーカルロックバンドであった。
このバンドの特徴はやはり、
男女掛け合い型のツインヴォーカルにつきる。
90年以降、globeや最近ではmihimaru GTなど、男がうわついたラップで掛け合いをするボーカルは数あれど、
そこにロックを取り入れ男女のツインボーカルで成功を収めたのは、日本では未だにバービーボーイズしかいない。
彼らの曲名は「勇み足サミー」「女狐OnTheRun」「あいまいテンション」など、
絶妙な言葉のセンスを用い、その題名は一度耳にすると以後50年は忘れない。
そんなバービーの名曲の中でも、今回あえて一番のメジャー曲ともいえる
「
目を閉じておいでよ」を、取り上げたい。
http://www.youtube.com/watch?v=op4Gt95iFHgこの曲はバービーでは最高位となる7位を記録し、「資生堂」のCMのイメージソングとなり、
KONTAの「髪の先までロックだぜ」のセリフは、この曲のヒットと共に彼らの知名度を広める事となった。
声にひと癖もふた癖ある
KONTAの超ハスキーボイスと、への字に曲がる眉毛とその表情
色気を究めた
杏子のこれまたハスキーボイスと腰の動き
ボーカル二人を喰ってしまうほどの存在感を持つ、
いまみちともたかこの3つのトライアングルが自分のポジションを主張する事によりぶつかり合うことで、このバンドは力強さを持っていった。
余談だが、私の洋服は黒が基調したしたものが多く、それはこの頃のDCブランドブームやカラス族の影響では決してない。バービーボーイズ、レベッカ、BOOWYなどこの頃TVで観ていたロックバンドの衣装が、基本黒だった事が原因だと思う。
この曲の歌詞の意味をよく知らずに、夜ヒットでこの曲を最初に聴いた時は前奏から最後までともかくカッコイイが先行していた。ある程度大人になり、サビの「目を閉じておいでよ」が、どのシュチュエーションでの言葉かを理解した時に、この曲は妖艶を佩びた曲となった。
歌詞 :目を閉じておいでよ(うたまっぷ)男女のツインボーカルにありがちな事を一切やらないのもこのバンドの魅力だったと思う。
例えばハモリなどはほとんど無く、お互いAメロBメロとはっきりと分けた歌い分けで自分のパートを歌い上げるスタイルである。
そしてバービーボーイズの全ての曲を通して、『愛』などという言葉は一切出てこないところに、彼らの哲学を感じる。
20年経っても一切色あせを感じない「目を閉じておいでよ」こそが、エロとかっこいいが融合した最高傑作の曲であると思います。
- 2007/03/26(月) 21:18:05|
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80年後半から90年代前半
バンドブームが世に起きた。
ネットが普及してないこの時代、彼らの事を深く知る手段は
音楽雑誌であった。
音楽雑誌といってもそれぞれが特化したジャンルを持ち独自色を競い、バラエティに富んでいたと思う。
さて、この時代の主な音楽雑誌といえば何があっただろうか・・?
PATi PATi 
表紙に書かれる独特なPATiPATiフォント(勝手に命名)が特徴的で、雑誌としてのインパクトも高かったと思われる。特徴としては他誌より判型が大きく、アーティストの写真もモノクロが主だったこれまでの傾向を一新し、カラーのイメージショットを巻頭から何ページも掲載されていた。
WHAT'S IN?
主にリリース情報が主な総合情報誌といえる。CBSソニー出版故にソニー系のアーティスト(バービーボーイズ、渡辺美里、大江千里、TM NETWORK,佐野元春など)の掲載率が高かった。表紙に写真を使わずにクレヨンタッチで描かれる事が多い。この雑誌のうんちくを書くべく、記憶を必死に思い巡らしているのだが、どうしても文通コーナーでペンフレンドを探していた思い出しか浮かんでこない。
CDでーた
名の通りデータを洋楽邦楽を問わず扱う。情報量は多いが深みはあまりない。安価なのが特徴.「WHAT'S IN?」「オリコン」辺りが同系と思われる。
宝島
70年代コアなサブカルチャーネタが主だった宝島も売り上げ減少で、80年代に入り大幅な方向転換を強いられ、音楽誌、特にロック志向の強い雑誌となる。バンドブームが去った90年代には風俗、ヘアヌードなどのアダルト雑誌へと10年単位で大きく路線変更を繰り返し、現在はビジネス雑誌となっており、カメレオンの様に形体を変えて生き残っている。
GB(ギターブック)

ギターブックGB →GB →Gb と改名を続けている。ギター少年にとってはバイブルともいえ、付録として歌本がついていた。テレビにはあまり露出しない尾崎や浜省などが好んで出る傾向があり、彼らの言動や姿を見るために一気に人気が出て、長いあいだ音楽雑誌の中ではナンバーワンの部数を売り上げていた。
ON STAGE
名前の通りライブレポートに特化した音楽雑誌。その号で特集されたアーティストのファンにはたまらない内容だが、逆にファン以外は買わない訳で、諸刃の剣の様な雑誌で現在はたぶん廃刊になっていると思われる。
ロッキングオンジャパン
チャート主導の雑誌とは異なり、ロングインタビュー形式でそのアーティストの半生までを深く掘り下げるのが特徴。雑誌に掲載するインタビュー内容もそのアーティストさえも発売まで知る事が出来ず、ヴィジュアル系を一切扱わないなど硬派な姿勢を守っている。それゆえにポップ色が強いアーティストの掲載には読者の間で議論がいつもおこる。
バンドブームの終焉とネット時代の到来により、私はこれら音楽雑誌を買う機会がほとんど無くなってしまいました。
現在どの雑誌が生き残っているのかもわかってないのですが、PATiPATiフォントを久々に見ると胸が躍る訳で、私の記憶の中では輝きを保って残っているのです。
BOOWYが解散宣言をした渋谷公会堂がいつの間にか「
渋谷C.C.レモンホール」と輝きを感じさせない名に変わったような悲劇を繰り返さぬよう、音楽雑誌にはいつの時代も魅力的でロック少年達の心をたきつけて欲しいと願うばかりです。
- 2007/03/13(火) 19:36:40|
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BOØWY 裏年表1960年
10月7日 寺西修(氷室京介)、群馬県高崎市に生まれる
「氷室」の名前の由来は、漫画「ワル」(講談社)の主人公、氷室洋二からとったもの
1962年
2月1日 布袋 寅泰、群馬県高崎市に生まれる
父親は家にほとんど居なかった
1969年
3月 高橋まこと、中学卒業後、志望していた進学校福島高校に不合格となり一浪する。
松井常松、小3の校内の陸上大会で優勝した景品のシャープペンを、友達に貸し渋った事をキッカケに、イジメに遭う。
1970年
高橋、福島高校に入学も、長髪に下駄というスタイルで登校し、初日から上級生にボコボコにされる。
1971年
11月 氷室、小6の時に「友人のカバンを傷つけた」と担任の先生に疑われ、大人たちに不信感を募らす。
1973年
4月 氷室、中学入学。校則通り五分刈りにする。卓球部に所属。
8月 氷室、先輩3人に呼び出しをくらうも返り討ちにし、暴力に快感を覚える。
12月24日 高橋、恋人に浮気される
1976年
4月 布袋、中学生にして180cmを突破
1977年
氷室、
パトカーをひっくり返す1978年
布袋、190cmを突破
1980年
9月 氷室、三原順子のデビュー曲「セクシーナイト」で 、寺西修一名義にてコーラスで参加する。
1982年
1月 高橋、BOOWYのドラマーのオーディションにて、曲の出だしのカウントする声が大きいという理由で受かる。
2月 高橋の「NO.NEW YORK」演奏開始のカウントがあまりにも大声だった為、松井が笑い出し、演奏が中断。
3月 ファーストアルバム「MORAL]発売。
ジャケットの帯には「
エアロスミスとアナーキーとサザンを足して3で割ったバンド」とキャッチコピーを付けられる。
5月 ツアーの宿泊費節約の為、全員でラブホテルの一室に宿泊
10月 氷室、太陽にほえろの「ラガーのラブレター」の回に出演
11月 髪を派手に逆立てる為に使用したダイエースプレーが、ファンに知れ渡り、
一時期全国のダイエーで陳列棚からこの商品が消える騒ぎに
布袋、
髪を含め200cm突破1983年
7月 3万人が集まるイベントと聞き参加するも、
村おこしのイベントで若者は30人程度。ギャラもキ
ュウリ、レタスなどの野菜であった。
1985年
高橋 ツアー先の観光地で必ず城に登る。
1987年
2月 ラストシングル「季節が君だけを変える」を発売
布袋が「もっと深い、俺たちの関係を言葉にして欲しい」と氷室の歌詞に意見した最初で最後の曲。
その要求の見返りとして、氷室作詞作曲の「CLOUDY HEART」がB面にくる事となる。
12月
写真誌「FRIDAY」にて氷室に殺人の前科があると書かれる1988年
4月 LAST GIGS「俺達はまだまだ伝説なんかにはなんねえぞ」の言葉を残しBOOWY解散。
12月 氷室、アルバム「FLOWERS for ALGERNON」が日本レコード大賞を受賞。
「これもひとえにスタッフとファン、
それからあとは俺の実力だと思ってます」とコメント
1989年
4月 布袋、イギリスで「DANCING WITH THE MOONLIGHT」を発売するも英国ファンには受け入れられず廃盤に。
7月 氷室、「SUMMER GAME」の作曲の為、首都高のパーキング内でギターをかき鳴らしていたところ、
警察に職務質問される。
1990年
3月 布袋、COMPLEX 2ndシングル「1990」を発売
この頃から、2人の仲が悪化していく
11月 布袋、COMPLEX解散コンサートを東京ドームで行う
布袋はこのコンサートをやる意思が無く、ソロアルバムGUITARHYTHMの製作にいち早く入りたかったが、ドーム経験の無い吉川に熱望されしぶしぶ興行を行うが、
この微妙な空気はDVDでも十分伝わる。
10月 氷室、30歳になり、「きてよ パーマン」をよく口ずさむようになる。
1992年
1月 氷室、正月にHOUND DOGの大友の家で麻雀をやり、大友が振り込んだ「中」で大三元をあがる。
1995年
阪神大震災のチャリティーコンサート(日本武道館)で氷室、布袋が共に参加するも、同じステージ上にあがる事はなかった。
1998年
氷室、元平家派で光GENJIのバックダンサーを務めていた経歴を持つ、
反町隆史に「ONE」の楽曲を提供
2001年
高橋、解散後いくつものバンドを渡り歩いたが、
未だに 「BOØWY 高橋」 とサインしている事が判明【参考文献】
「大きなビートの木の下で」(ソニー出版刊)
「BOOWY RENDEZ-VOUS」(ソニーマガジンズ刊)
「BOOWYと日本のロック」(宝島社)
- 2007/03/05(月) 21:40:45|
- 懐かし音楽
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最近のバンドは、バンド結成に至るメンバーの出会いを聞かれると、
「居酒屋のバイト先で知り合って・・」
「オーディション合格して、レコード会社の面談室で・・」
など、とても正直だと思うが、やはりロックバンドにはウソでもいいから、物語が欲しいと思ってしまう。
出会いは衝動的で衝撃的であって欲しい。
■ 映画での出会いいつかギラギラする日 (1992年)

巨匠、深作欣二監督によるアクション映画である。
主演は後に日本刀を車に隠していたとして、銃刀法違反で逮捕された木村一八と、
これまた後に暴力団の名前を使い、恐喝未遂で告訴され実刑となった萩原 健一のダブル主演である
そうそうたる出演者で、その内容も楽しめる人間をかなり限定しそうな映画だが、この作品がキッカケであるバンドが誕生する事となったのは、意外と知られていない。
この映画に当時結成していたバンドで、パンクバンド役として出演していた恩田快人という男がいた。このバンドのおっかけ役でエキストラとして出演していたのが、後にボーカルになるYUKIである。この2人がこの映画で出会った事によって生まれたのが・・・
そう、
JUDY AND MARYであった。
■ ある先輩の助言高校の頃に今井宅に集まった面々で始まったバンド「非難GO-GO」が結成された。この「非難GO-GO」で当時ドラムを担当していたのが櫻井という男であった。
そのドラムの男は高崎時代の先輩でもあるBOOWY時代の
氷室京介に打ち上げの席で「おまえ(顔)カッコいいんだから、ボーカルやっちぇえば?」と言われ、この言葉がキッカケかどうかは不明だが、この男はボーカルに変更し、このバンドは後に
BUCK−TICKと改名する。
ロックバンドとはしては異例の第一線で20年活躍しながら、メンバーチェンジを一切行なわず現在に至る。
■ 昨日の敵は・・1979年、当時アマチュアミュージシャンにとっての登竜門的コンテストであった「イースト・ウエスト」の関東・甲信越大会である2つのバンドが決勝を争った。

その決勝で、ブルー・フィルムを率いていたギタリストの名前は布袋寅泰
もう一方のデスペナルティを率いていたヴォーカリストの名前は氷室京介
この大会で優勝したデスペナルティの氷室は、音楽会社ビーイングよりスピニッジパワーとしてデビューするも、やりたくない音楽を強要される事に嫌気がさし、バンドを脱退。地元高崎に帰ることを決意する。
その時にたまたま観た
RCサクセションのライブに心を動かされ、もう一度バンドをやる事を決意する。そこで氷室の頭に浮かんだのは1年前の大会の決勝で争ったあの男を喫茶店に呼ぶこととなる。
その喫茶店から生まれたのが
BOOWYであった
■ 楽屋に戻ると・・人気のあった函館を経て、メジャーデビューを目指し上京するも、泣かず飛ばずの日々が2年も続く。その間、アルバイト先でどんどん出世し、警備会社では主任になり、左官屋では差配となり、別の道が開けそうになるが彼らは下積みを続ける道を選ぶ。
そんな中、東京近郊のライブハウスでステージを終えて楽屋に戻ると、デモテープを送り続けていたあの男が突然現れる。その男とは
YOSHIKIであり、同日、EXTASY RECORDSとの契約が決定する事となる。
そのバンドは
GLAYという。
さぁ、バンドしようぜ!
- 2007/02/27(火) 21:59:29|
- 懐かし音楽
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ブラックジョークとは?
「冗談」のひとつではあるが、場を和ませるというより
場の空気を醒ますような、後味の悪い冗談のたぐい
欧米感覚のない私も毒のあるジョークを言える様、活動中いろいろと不仲の噂のあったCOMPLEXの
活動停止後のお2人の毒のある発言に学んでみる。

(現在の2人の関係は?)
吉川 「
離婚したような関係」
布袋 「
COMPLEXさえ組まなければ、少なくとも友達を失くす事はなかったはずなんだよね」
(COMPLEXの活動を振り返って)
「
商業的成功以外、何も得ることはなかった」
「組んでみたら最初から全然感覚から何から違っていて、最後のアルバムを出すときにはもう勝手にやってという感じだった。」
「1枚だけしかアルバムを出さないのはカッコ悪いから2枚目のアルバムも出したんだけど、その時はもう、完全に分業体制でレコーディングをしていた。」
(当時のミュージシャン同士のケンカについて聞かれ・・)
「その話はホント勘弁してくれ。背の高いおっちゃんとバンドしてた時、俺はヤツに一回も手を出した事はないんだよ。」
「彼(布袋)はよく暴れていました!」
(友人の藤井フミヤ に「布袋はバンドを長続きする様なタイプじゃないよね」と振られて)
吉川「・・・・」 (長い無言がまた意味深)
そんな吉川さんの最高のブラックジョークといえば
(解散ライブの最後に布袋が笑った事について)

吉川
「2年ぶりにあいつが笑った気がした」(注)活動期間はわずか2年
現在も活動停止中のCOMPLEXの再始動を、私は今でも心待ちにしております。
- 2007/02/20(火) 21:54:37|
- 懐かし音楽
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